
自分のことは自分でする 戦後、東京で生まれて、下町で育ちました。両親は商売を何度か変えましたが、最後は「山水楼(さんすいろう)」という中華そば屋を営んでいました。…
もっと見る
研究室の親分 学生時代に物理学の研究に興味を持ち、大学院へ進みました。所属先は小柴昌俊研究室です。当時、特定の研究がしたいという気持ちなどはなく、また、小柴先生に憧れて、というわけでもありませんでした。...
もっと見る
生きているあいだは いま大津に住んでいます。琵琶湖があって、自然が豊かで、フィンランドによく似ています。人が少ないところも同じです。フィンランドは、男女平等が進んでいて、若い女性が子育てしながら総理大臣になれるような国。そういうところはすごくいいし、わたしも好きです。それなのに、なぜ日本に?...
もっと見る
もののあはれを知る 歴史や文化は言葉で受け継がれてきました。私は日本語が大好きで、本当に美しいなと思うのです。特に、小林秀雄や加藤典洋の文章、西行の歌に触れると共感できることが多くて、…
もっと見る
メルヘンチックな誤解 シューベルトの作品に『美しき水車小屋の娘』というタイトルで有名な歌曲があります。今年、わたしが出した本ではあえて、『水車屋の美しい娘』としました。というのも、従来のタイトルからはメルヘンチックな「美しい水車小屋」をイメージする人が多いのではないか、と思ったからです。…
もっと見る
どうもない、どうもない。 中学生のときに母が家を出ていき、続けて父も家を離れてしまいました。両親ともに悩んだ末のことだと思いますが、それからずっと父方の祖母とのふたり暮らし。...
もっと見る
こんな天気のいい日に わたしの人生で大きなターニングポイントになったのは、作家の水上勉先生との出会いです。先生から竹紙のことを教えてもらうまでは、竹から紙ができることさえ知らなかった。ある日の朝6時半ころに電話が鳴って、...
もっと見る
技術と信頼と 2年半前に父を亡くしました。珪肺を患っていて、6年前に一度倒れてからは発作と治療を繰り返していました。医師からは薬が効くのも4回までが限界だからと言われていたのに、父は12回ももったんです。
もっと見る
「フランスの花ですか?」 いま、ご縁があって仏花のお仕事をしていますが、はじまりは自宅の庭のガーデニングでした。庭で育てたお花をドライフラワーにして、それをリースにしリースにした品を偶然、百貨店のバイヤーの方が見て、うちで出してみませんかって。…
もっと見る
ベースにあるもの 15年前に父が亡くなりました。64歳。持病もなく、あまりに突然のことで、本人が一番びっくりしているかもしれません。当時、家族の中で仕事のことがわかっていたのがわたしだけだったということもあって、会社を継ぐことにしたんです。...
もっと見る
好きなことだけ 小さなころからベッドの下には大きな画用紙が100枚くらい、いつも置いてありました。絵を描いてもちぎっても、何に使ってもいいからと、母が用意してくれていたものです。小学生のとき…
もっと見る
断れずに、そして偶然に 静岡の伊東の生まれで、実家は魚屋をしています。おじいちゃんが開業して、当時は保養所がたくさんあったから、納め先も多くて繁盛していたみたいです。いまは父と母とふたりの従業員で小さく営んでいます。…
もっと見る
いちばん好きで、いちばん憧れた人 昭和5(1930)年に東京の下町、亀戸で生まれました。幼いころから作文や文字を書くことが好きで、将来はジャーナリストになりたいと思っていました。学校では音楽の授業がとにかく苦手で、それを知った父がとつぜんオルガンを買ってきてね。…
もっと見る
こちらも、向こうも 小学校4年生のある日、父に呼ばれ「あしたから修行へ行ってみるか?」と言われました。父の兄弟子にあたる高田好胤のもとで、住み込みで修行を積めというのです。そのころは親との関係もあまりよくない上に、5人兄弟の長男で、幼い弟たちの面倒を見なくてはならないのが億劫で、…
もっと見る
ダンス教室からムスリムに 子どものころからずっとバレエをやっていたこともあって、シンガポールに来てから、友人の勧めでサルサを習い始めました。そのサルサの教室を通じて出会ったのが、いまの夫です。...
もっと見る
真実のひと言 わたしの師匠は白鳥健二といって、フランク・ロイド・ライトの孫弟子にあたります。わたしは建築家の中でフランク・ロイド・ライトがいちばん好きでしたので、白鳥さんのところに弟子入りしたんです。弟子入りしてすぐに白鳥さんに、...
もっと見る









