Sotto

Vol.95

京刺繍 伝統工芸士

安部敦子さん

他人の喜びに寄り添える人であれ

いつもだれかが

祖父は京都、祖母は横浜の生まれでね。結婚を認めてもらえず、駆け落ち同然に東京へ行って、それから関東大震災のあとに滋賀の大津に来ました。当時はまだ読み書きができない人も多かったそうで、祖父は家業であった刺繍と読み書き、祖母はお花を教えながら暮らしていました。そうして私の母が刺繍を受け継ぎました。

わたし自身は滋賀県近江八幡の生まれで、1歳半から京都で暮らしています。子どもの頃は商売がにぎやかで、問屋さんや染め屋さんが入れ替わり家に立ち寄って、家にはいつもだれかがいました。夕方になると母が、「ご飯食べていきい」って、みんなに夕飯を食べて帰らせるのです。若い職人さんの子どもが来ると、わたしがお世話係になって、まるで保育園状態でした(笑)。そのときの人たちとはいまでもお付き合いがあります。母が亡くなって、わたしが刺繍の仕事を継ぐことにしたときには何度も助けてもらいました。

 

6歳のころ(1970年、京都)

 

シベリアのこと

父は滋賀県の近江八幡で生まれ、戦争中は軍の諜報活動に関わっていて、国境地帯でスケッチなどをしていたそうです。戦後はシベリアに5年間抑留されていました。ようやくシベリアから帰国できることになり、列車に乗り込んだのですが、途中で列車が止まり、「いまから名前を呼ぶ者は降りろ」と言われて、父は名前を呼ばれました。再びシベリアで労働をしながら、黒竜湖に浮かぶ日本兵の死体を引き上げたりしていたそうです。シベリアから帰れる見込みもなく過ごしていたある日、一枚の毛布で寄り添って寝ていた清水さんという方が朝になると寒さで亡くなっていました。父はその人の名前を借りて、なんとか帰国することができました。

 

幼稚園のころ。父の日の帰り道に(1968年、下賀茂神社)

 

帰国後は庭師をしながらシベリア抑留にまつわる書籍の編集に携わっていました。向こうにまだ仲間の骨があるからと、近所の人といっしょにシベリア行きの計画を立てていたのですが、その夢を叶えることなく亡くなりました。当時は戦争の話なんてうっとうしく思ってしまったけど、いまとなっては、もっと聞いておけばよかった。ねえ、父さん。

 

出逢うべき人には出逢う

父はよく、「遅かれ早かれ、出逢うべき人には出逢う。されど、その人の心に縁なくば縁は生じず」と言っていました。すぐ隣にいても縁のない人とはつながることはない。一方で、遠く離れていても縁のある人とはつながっていく。必然なのか、偶然なのか、縁とは不思議なものですよね。

わたしもたくさんの縁を感じて生きてきました。〈あいうえお〉という言葉が好きで大切にしています。「あ=愛」「い=命」「え=縁」「お=恩」を大事にすれば、真ん中に「う=運」が開けるという意味です。他人の悲しみには誰でも寄り添えるけど、他人の喜びをすなおに喜べない。人間の弱さでしょうね。でも、自分が幸せであれば、他人の喜びに寄り添える。そういう人でありたいと思っています。

 

 

伝統工芸は継承者が少なく、衰退していくばかりですが、すばらしい技術が失われるのはほんとうに悲しい。わたしにできることは小さいですが、これからも新しいことを考えながら、次の世代にバトンを渡せるように努力していきたいです。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

Share

So storyでは
読者のみなさまのご意見、ご感想をお待ちしております。