Sotto

Vol.70

和婚塾 塾長/office MAY-Be代表

飯田美代子さん

仕事があるから元気でいられる

いちばん好きで、いちばん憧れた人

昭和5(1930)年に東京の下町、墨田区亀沢町で生まれました。幼いころから作文や文字を書くことが好きで、将来はジャーナリストになりたいと思っていました。学校では音楽の授業がとにかく苦手で、それを知った父がとつぜんオルガンを買ってきてね。家庭教師まで来るようになっちゃった。贅沢だわね、いま思えば。ほかにもなにか芸事を習わせようということで、板東流の名取の試験を受けて、「坂東登美華」の名をいただきました。昭和20(1945)年、東京大空襲の年に振袖の上にモンペを履いて家元(板東三津五郎)の家に免状を受け取りに行ってね。空襲で家は焼け焦げてしまったけれど、日付の入った紙の免状はいまも残っています。

わたしの根底には常に「無から有を生む」という精神があります。父からもらった大切な言葉です。父はわたしがいちばん好きで、いちばん憧れた人。とっても粋な人で、最後の江戸っ子だと思っています。工場でエンジニアとして働いていた父は、当時は軍需産業で稼いでいたみたいだけれど、戦後の接収で残ったのは国債だけ。あのころはみんな国債をたくさん買わされたの。戦後のインフレで国債が無価値になったうえに、現金を引き出すために銀行に持っていったら、ひと家族につき300円しか引き出せないって言われてね、預金閉鎖よ。父は、お金もうけはもういい、次は領収書のいらない仕事をしようって、50歳になってから國學院大学の夜学に通って神官の資格を取得しました。

 

帝国ホテル、取り壊される前の旧ライト館にて(1968年)

 

何をやっても必ずそうなるようなやり方

父からは、「美代子や、字を書くことを仕事にしたいなら、何をやっても必ずそうなるようなやり方で生きなさい」と、よく言われて育ちました。昭和27(1952)年、敗戦後の占領が終わる年に大学を卒業して、でも、とにかく仕事がなかった。はじめて就職したのは島根県松江市の地方紙。自転車に乗ってあちこち駆け回って働きました。それから40歳のときに婦人画報社に声をかけてもらって転職しました。15年ほど勤めたころに、大学時代の友人でNHKの伊達宗克(だて・むねかつ)くんから、新しくつくる会社の出版部門を立ち上げてくれないかとオファーを受けて、57歳でまた転職。60歳でまた別の出版社へ。その後は、だれかに雇われるのではなく自分で起業したいと思って、ブライダル雑誌の出版社立ち上げて、84歳まで続けました。いまは個人オフィスをやっています。なんだかんだあったけれど、書くことをずっと仕事にしてこられてよかったです。

 

大好きだった父との一枚(5歳、1935年)

 

よそ見をしないで、最後までやってみる

最近は電子書籍の執筆に挑戦したり、戦争体験をネットで発信したり、子どものころの暮らしの様子を思い出しながら書き残しています。俳優業やユーチューバーの活動もやりますよ。若いころ、わたしがあまりにも働き詰めだったものだから、父から、「美代子が死んでも電車は走っているし、何も変わらないんだから」と言われました。もっと余裕をもって生きなさいってことだったのでしょう。

一つの目標を立てたら、あちこちよそ見をしないで、最後までやってみる。それが大事なのかなと思っています。死ぬときはペンを持ったまま死にたい、と言い続けてきました。いまはもうパソコンで書く時代になっちゃったけど。とにかく、わたしにとって父は憧れの男性でした。父よりすてきな男性に出会えなかったから、とうとう結婚しなかったのかもしれませんね(笑)。

戦争も大切な人の死も、たくさん経験したので、命を粗末にはしたくない。そして、やっぱり、死ぬまでずっと仕事をしていたい。仕事をするといろんな人とお付き合いができる。それはほんとうにすてきなことなんです。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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