Vol.71

教員

佐藤剛さん

「大丈夫かな」

父と母

実家は農家です。兄も教員で、兼業農家。ぼくもときどき田んぼを手伝っています。父には、農家から息子ふたりを大学に通わせて教員にしたという自負があったみたい。もう亡くなりましたが、仏壇の写真を見ると、父に顔が似てきたなと自分で思います。すごく優しい父で、ぼくが自分で決めたことに反対されることはなかった。やんちゃなこともたくさんしたのにね。父の生前、家ではいっしょにお酒を呑んだけど、外で呑んだことはなかった。一度、どこかの店でいっしょに呑みたかったな。

母はいまも元気ですよ。昔のことですが、ぼくは釧路の大学を卒業して、そのまま北海道で教員になるつもりでいたんです。当時、向こうでお付き合いしていた人もいたし。そうしたら、母から電話があってね。「ツヨシぃ、父さん、入院したのよ……」。ぼくも気が動転して、これは帰ってあげたほうがいいよなあ、って。それで北海道はあきらめて、岩手で教員になると決めた。こっちに帰ってから、あらためて父がなんの病気で入院したのか母にたずねたら、「父さんね、痔で入院したの」。痔がオレの人生を決めたのか!

母は84年間、自由奔放に生きてきたようなひと。ぼくは、高校生になるまで母の名前は「房子」だと思っていた。でも、ほんとうは「フサ」だった。これには、「あいヤァ、バレたかぁ。オレも名前に“子”つけてみたかったんだァ」。自由でしょう?

 

北海道で学生生活を過ごす、二十歳のころ(1987年、釧路)

 

教え子たち

今年で小学校の教員生活32年。ぼくみたいな人間でも続けられるんだから、岩手県は懐が深いですね(笑)。高学年を担当することが多いのですが、休み時間になると、子どもたちが寄ってきては、ぼくに腹パンチしたり頭突きしたり。いろんな子がいて楽しいですよ。以前は、小学校の課外活動でタグラグビーの指導をしていました。その最初の教え子たちがいま、選手やレフリーとして活躍しています。彼らが出ている試合はやっぱり気になるし、試合で怪我をすれば心配もする。お母さんから「先生、またあの子が怪我した」とメールがくるけれど、「生きていれば、大丈夫」と返信します。

32年もやっていれば、教え子は何人かわからないくらいたくさん。中にはその後のことが気になる子もいます。自分が担任のときはサポートできても、学年が上がってどうかな、中学校にはちゃんと行けているかな、と。でも、しょせん、担任なんて1年だけしか子どもたちを見られない。だから、せめていっしょにいるときは楽しく過ごせるようにと思っています。管理職になることには興味がないから、これからも現場一筋だな。

 

高校時代はラグビー部、ポジションはフランカー(1983年)

 

娘と息子

息子が20歳になったので、今年のお正月、息子と娘と嫁さんとで、行きつけのお店でお酒を呑みました。父とできなかったことを、とりあえず息子と果たすことができた。息子は、ぼくと妻が小学校教員として大変な思いをしているのを間近で見てきたのに、なにを間違ったのか、教育学部へ。入学してからの2年間、コロナ禍でほとんど大学には行けていません。ひとり暮らしですが、自分から外に出ていくタイプではないし、彼がこれからどうなるのか、心配のタネではありますね。

娘は、かわいそうに、ぼくに似てしまって(笑)。不思議なことが大好きで、ふつうの道を歩いてはいません。高校最後の三者面談で突然、「わたしは女優になります」と言いだして、先生の前で親子喧嘩。大学には行くように言うと、演劇の勉強ができる公立大学を自分で探してきて、進学しました。3年間で4年分の単位をさっさと取って東京へ行き、劇団の研究員として経験を積んで、いまは舞台に立っています。役者として活動しながら、日本舞踊の稽古をしたり、ケーキ屋でアルバイトしたり。実家に帰ってくると、ヘトヘトになっている。いま一番心配なのは、娘です。

ふだん、子どもたちはあんまり連絡をよこしません。心配してもどうにもならないけど、でも、娘も息子も、教え子も、それからやっぱり母のことも、大丈夫かなっていつも想っています。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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