Sotto

Vol.67

薬師寺 執事

松久保伽秀さん

しっかりと立って生きるために

こちらも、向こうも

小学校4年生のある日、父に呼ばれ「あしたから修行へ行ってみるか?」と言われました。父の兄弟子にあたる高田好胤和上のもとで、住み込みで修行を積めというのです。そのころは親との関係もあまりよくない上に、5人兄弟の長男で、幼い弟たちの面倒を見なくてはならないのが億劫で、「家から出られる! ニューフロンティアや!」と意気揚々と出ていきました。ところが、行ってみたらとんでもないブラック社会で(笑)。お寺に入った瞬間から、どうやったらはやくお寺から抜け出せるか、そればかり考えていました。

それでも高田和上はわたしにとって師であり、もうひとりの父のような存在でした。あるときふたりで湯船に浸かっていると、わたしの手のひらに「集」という字を書いて、般若心経の「苦集滅道」という言葉は、奈良のお寺だけは「くじゅうめつどう」と「集」を濁って読むのだと教えてくれました。多忙な和上が、10歳の〈こども〉相手に手を抜くことなく伝えてくれたこと――。それがずっと心に残っていました。

一人前のお坊さんになるための最終試験である「堅義(りゅうぎ)」を行ったのは36歳のとき。ある祠の前で読経していると、お地蔵さんのよだれかけに書かれた般若心経の「集」の字に目が止まったのです。涙がぼろぼろ流れてきて、お風呂でのことを思い出しました。あの10歳のときからつながって、ようやく一人前のお坊さんにならせてもらえた、と。和上はそのときにはもう亡くなっておられたけれど、自分のことを想ってくれていると感じた瞬間でした。

こちらが想うばかりではなくて、きっと向こうの人も想ってくれている。そう確信したときに、人は幸せを感じるのでしょう。

 

 

「堅儀」に臨む(1995年、36歳)

 

自分の軸をたしかめる

高田和上は生前、第二次世界大戦の戦地をめぐり、その土地々々でお経を読んでいました。大地に平伏し五体投地して、慰みきれない数多の御霊に想いを寄せる。どんなに忙しくても毎年のように現地へ行こうとする姿は、これが自分の生きかたなのだと示すようでした。いま、わたしたちは2011年の東日本大震災以降、毎年3月に被災地を訪ねています。「和上だったらきっとこうするだろう」と、師の思いをたどるように。

東日本大震災の被災者の中には、いまも行方不明になった家族を捜す人がいます。ある女性は毎朝、竹の棒を持って海岸沿いを捜索するのですが、一方で、お弁当をつくってお供えして、夕方、鳥が啄んだお弁当箱を見ては、「きょうもちゃんと食べたね」と娘に語りかける。鳥に姿をかえて娘が戻ってきた、彼女はそう実感し、納得しているのです。

相反する思いを行ったり来たりすることってありますね。そうやって両輪をつなぐ自分の軸をたしかめる。その「中道(ちゅうどう)」があれば、ひとはしっかり立つことができるのだと、教えられました。

 

高田好胤和上と(1981年、22歳のころ)

 

生きている人のために

お経は、亡くなった人に対する弔いや慰みのイメージが強いかもしれませんが、奈良のお経は明るくて、生きる人のために唱える祈りです。仏教には「悔過(けか)」という行法があって、佛さまの前でお経を通して自身の罪と穢れについてお詫びするのですが、小さな声では聞こえない。大きな声で、全身全霊でシャウトするように唱える。生かしてもらっている感謝の気持ちを、お詫びもしながらめいっぱい伝えるのです。生きている喜びに触れるという点では、ゴスペルに近いですね。ほら貝や太鼓、鐘などをいくつも重ねて打ち鳴らす。大地を揺るがすように音を響かせる、音楽的なお経です。

佛さまの前で使う道具は同じでも、使う人や使いかたが変われば、その意図と意味が変わる。また、時代の変化とともに、人の価値観も変化します。薬師寺は元来、世の中と直結したお寺。これからも人間社会のありかたを問う場所として存在し続けたいと思っています。

 

 

(聞き手・撮影=平野有希)

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