Sotto

Vol.68

元新聞記者

武内宏之さん

こころの復興を見守り続けたい

因果な商売

わたしの原点は、夏目漱石の『こころ』です。中学2年生の夏休みに読んで、「人間って汚いなあ」と。思春期だから、ずいぶんと影響を受けました。それで、人間の汚いところを見られる場所を探したら、裁判だった。自分に検察や裁判官は向いてないから弁護士になろうと、大学は法学部に進学しました。卒業後は司法試験合格を目指して働きながら勉強しようと考えて、たまたま就職課で見つけたのが、石巻日日新聞の募集で。だから、記者になりたくてなったわけじゃないんです(笑)。

ところが、新人の新聞記者が最初に担当する「サツまわり」で、警察や消防を取材すると、人間社会の汚い部分が見えてきた。そこから38年間、どっぷりハマってしまいました。最後の7年間は震災報道に携わりましたが、非常時は、人や社会の良い面も悪い面もあらわにします。見たくないこともあるけれど、見ないで報道することはできないし、やっぱり見なくちゃだめだと思う。因果な商売だな。

 

抜けるような青空に映える石巻駅舎

 

ちゃんとやってっか

震災のときは会社にいて、それから1カ月、泊まりこんで仕事しました。自宅にも津波が入って被災しているのに、帰らなかった。下のふたりの子どもと両親は、2階へ逃げて無事でした。当時、仙台で暮らしていた一番上の娘は、石巻沿岸部の映像を観て、「家もお父さんの会社もない。お父さんは友だちを見捨てて自分だけ逃げるようなことはしないひとだから、死んだと思った」。そしたら2、3日して、壁新聞の取材でわたしがテレビに出はじめたものだから、「なあんだ、生きてたんだ!」って(笑)。すぐ友だちに車を出してもらい、30個ほどのおにぎりを握って持って会社にきてくれました。たまらなかったなあ。

女房は22年前、40歳で他界しました。生前、友人には「うちは母子家庭」と言っていたそうですが、家のなかのことは任せっきりで。オヤジがしょっちゅう出歩いているから、体調が悪くても我慢していたのかもしれない。女房が亡くなったあと、わたしの両親がいてくれたから、なんとか子どもたちを育てられました。わたしも、学校行事はできるだけ出席すると決めました。仕事に邁進していても、いつも家族のことはこころのなかにありました。ちゃんとやってっかなあと。いまは両親も亡くなって、自分にとって大切な人というと、いちばんに子どもたちの顔が思い浮かびますね。

 

日和山公園から旧北上川を望む

 

11年経ってわかること

ある本に、人間は弱くて、からだの大きさや足の速さなどほかの動物にはどう立ち向かってもかなわないから、仲間つまり社会をつくった、と書かれていました。だから、苦しんでいる人がいたら手を差し伸べるのが当たり前なのだと。震災後、人口16万の石巻に累計20万人のボランティアが来てくれました。ひとかきするだけで動けなくなるほどしんどい泥かきを、縁もゆかりもない土地で真剣にやってくれた。みんな、同じ人間だと感じたと同時に、ありがったかった。涙がでるほど。この恩は直接は返せないけれど、困っている人がいたら今度はわたしが助ける番。「恩送り」(先人の言葉)で返していきたい。 

震災から数日後に、津波に飲まれた日和幼稚園の園児の親御さんたちが、「なにか情報が入っていないか」と日日新聞をたずねてきました。情報は提供したけれど十分ではなかったし、停電中でカメラのバッテリーが切れては困るから写真も見せられなかった。地元なのに何もできなかった。いま、そのご遺族の活動のお手伝いをしています。

11年経ってわかるのは、家や仕事を失った場合は年数とともに、ほぼ震災前の状態まで戻ってきているけれど、大切な人を失った場合はそういうわけにはいかないということ。こころの傷は、深さも形もそれぞれ違います。大切な人を失った人がどういうこころの復興を遂げていくのか、これからもずっと見守りたい。そして、書き残しておかなくてはいけない、と強く思っています。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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