Sotto

Vol.54

生田神社 名誉宮司

加藤隆久さん

共にある、神と自然と人

震災からの復興~希望の光~

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で、生田神社も大きな被害を受けました。境内の建物はもとより、太平洋戦争の空襲で600発の焼夷弾が落とされたときにも残った石の大鳥居でさえ、震災では根元から倒れました。倒壊した拝殿の屋根は地面を覆い、まるで地上を這う獣のようでした。

 

❝うるわしき唐破風(からはふ)持ちし拝殿は 地上に這いて獣のごとし❞ 白鳳

 

そんな光景を目にし、鉄槌で殴られたような大きな衝撃と喪失感のなか意気消沈していると、脳裏に亡くなった父があらわれ「君は神社の造営をしたことがあるか。いまこそ、神戸の大氏神の復興・造営の仕事をやり遂げる機会を、神様が与えてくださったのだ」と言うのです。父は生前、3つの神社を造営しました。空襲で焼失した生田神社も復興させています。宮司にとって神社の造営は大仕事であり、名誉なこと。この父の声で我にかえり、心機一転、猛然と働きはじめました。

神戸の地名は、「生田の神を守る家」という意味の神戸〈かんべ〉からきています。神社は本来、地域のコミュニティセンターであり、生田神社は神戸の街とともに栄えてきました。「神社の復興が、市民の希望の光となる」。そう決意して、1年6か月という早さで神戸復興の先駆けとなったことは、わたしの人生におけるこのうえない喜びです。

 

❝ありがたや皇神(すめかみ)居ます本殿は 森を背(そびら)に輝きて建つ❞ 白鳳

 

 

家族そろっての一枚。前列真ん中が加藤さん(1937年、岡山の吉備津彦神社にて)

 

わたしを支えている言葉

生田神社の宮司だったわたしの父は、学校を特待生で通って、1番で卒業しました。字もうまくて、歌も詠みました。厳しいひとでしたが、わたしにとってはとても影響力がありました。父の口ぐせは「これからの神主は学問をよくし、学者神主として生きていかねば意味はない」でしたから、わたしは神職と学者、両方の道を歩むことを選びました。

あるとき書画の蒐集家でもあった父が、幕末の国学者で神職の岡熊臣(おか・くまおみ)の筆による石見国・島根県津和野藩の藩校「養老館」の学則を見せてくれました。感銘を受けたわたしはすぐに津和野をたずね、熊臣の事績と養老館の歴史などを調べはじめたのです。

富長山八幡宮の岡勝宮司は熊臣の子孫で、最大の協力をしてくれました。その後、病に倒れた際には、「研究をすすめ、やがて本にでもしてほしい」と言い遺して帰らぬ人となりました。

その遺言を胸に、15年ほどかけて熊臣の著述を翻刻したり、大学院に通って論文を提出したりと、生田神社に勤めながらの研究生活を続けました。また、今年亡くなった畏友(いゆう)は「先人たちの声なき声が、英知と力をもたらしてくれる」と言いました。彼らの言葉は、神職と学者を両立させてきたわたしの胸にいまも深く刻まれています。

 

阪神・淡路大震災で倒壊した生田神社拝殿前にて(1995年1月20日)

 

精神的な豊かさを求めて

今年88歳、米寿です。家内は3歳下で、生田の森をちかくに感じながら、ふたりで元気に過ごしています。森には樹齢600年を超える木もあります。

 

❝歴史きわめて 百年(ももとせ)の歩みを語る 杜の老樹(おいき)❞ 白鳳

 

むかしから人々は、地域の神社に神を祀り、事あるごとに集まって協議し、共同体を運営してきました。そのなかで「神々と自然と人々が共にある」という調和を重んじる意識が形成されてきました。

しかし、わたしたち人間は、物質的な富を無制限に追求したことにより環境破壊を起こしています。そのことを自覚するべきです。「足るを知る」という格言にあるように、物質的な豊かさから離れ、精神的な豊かさを求めるべく、思考を転換していかなくてはなりません。

神道では、人間をふくめた自然のすべてに神々が宿ると考え、親子、兄弟、姉妹のようにとらえています。思想、信条、宗教の違いを超えて、互いに理解し、尊敬しあい、人類が等しく寛容の精神を抱くよう人々を導くことが、わたしの勤めだと思っています。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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