Sotto

Vol.53

目利き

新居勝己さん

こんどはぼくが「恩返し」をする番

教授とヤマメ

わけあって地元、徳島の商業高校を中退してから、大阪で兄が経営するクリーニング店で営業まわりの仕事をしました。でもずっと、「日本の一番は東京や」と思い込んでいたので、ある日、ひとりで最終列車に乗って、東京へ。17歳のころです。

朝、東京駅に着いたところで、知り合いがいるわけでもなく、行くあてがないから、駅前の喫茶店に入って、新聞の求人欄を見ていると、斜め前のテーブルに座っていた男性が声をかけてきました。見るからに若くて、ばりばりの大阪弁を話すやつがいる。そりゃあ、気になりますよね(笑)。事情を話して、クリーニング店での経験があるというと、その場で仕事先を紹介してくれて、住み込みで働くことになりました。

あとでわかるのですが、その人は上智大学の教授でした。ときどき大学の食堂にご飯を食べにつれて行ってくれたり、ときには講義を聞かせてもらったり。のちに正式に受験して入学することになりましたが、そのときのぼくは、これから何をしたいとか、何になりたいというものがなかった。そんなときに講義の余談で、「ヤマメは子どもが子どもを産む」という話を聞いて大きな衝撃を受けたんです。

さっそく川へ釣りに行ったものの、これがまったく釣れない。一日がかりでようやく1匹、それもヤマメじゃなくてアマゴが釣れた。でも、魚体のルビーのように輝く赤い斑点に見惚れて、「ぼくの生きていく道はこれだ!」と。もっと現場で研究したいと思って、大学をやめたいと教授に相談したら、「君にはそっちのほうが向いているかもしれないな」と背中を押してくれた。住む場所から仕事、大学まで縁をつないでもらったのに、おおらかな時代でした。

 

17歳で上京したころの東京、麻布十番(1964年、毎日新聞社)

 

新聞記者とアユ

全国あちこちの渓流に入って魚を釣りながら、淡水魚の研究を続けていると、取材に来ていた新聞記者に声をかけられました。「君の釣りの腕はプロ級だ。それを生かして記事を書いてみないか」と。もともと趣味で釣り雑誌への投稿をしていたものだから、物書きの仕事もおもしろそうだと思って、新聞に記事を書きはじめました。

趣味の雑誌とちがって、こんどは新聞ですから、一般の人から淡水魚の専門家まで、どんな人が読んでいるかわからない。ぜったいに間違いがあってはいけないと、すこしでも曖昧なことがあったら徹底的に文献を調べて、ひとつの言葉に何時間も向きあいました。いまもそうだけれど、ぼくは、自分を追い込めば追い込むほど能力を発揮するタイプ。それはこのころの経験で培われたと思っています。

釣りの仕事も順調に運んでいたある日、母に頼まれて、兵庫県の芦屋までアユを届けに行きました。そこは名の知れた企業の社長さんのお宅で、ぼくの釣ったアユをとても気に入ってくださった。そしたら、こんど家でパーティがある、そのときにぜひお客さんにアユをふるまいたい、と。50匹の依頼でしたが、100匹ほどそろえて持っていきました。そのときのご縁で、社会を動かすような錚々たる人たちと出会って、かわいがってもらって、言葉では言い尽くせないほどお世話になりました。でも、みなさん、「礼はいらない、こんどは君が次の代に返したらいいんだ」と言うんです。私利私欲の人は誰もいませんでした。

 

全国の渓流を歩くうちに、食材の目利きが自然と身に着いた

 

恩返しとヒーロー

こうして好き勝手に生きて、おもしろい人生を送れているのは、たくさんの人との出会いがあって、たくさんの恩を受けてきたからこそ。だから、こんどはぼくが「恩返し」をする番です。

いま日本の「農」そして「食」は危機的な状況にあります。それはぼくが全国各地の自然を知り尽くしているからわかることです。どうしたらいいのか、自分になにができるのかを考えて、女性や子どもなどのいわゆる社会的な弱者を守ることにした。

いろいろなところから講演の依頼があるのですが、ほとんどすべて断っています。いま受けているのは小学校からの依頼だけ。ぼくは、大人には期待していません(笑)。子どもには未来があります。地球を救ってくれる可能性がある。子どものためにはお金も時間も労力もかける。子どもたちを守る活動をサポートしているのもそんな思いからです。そしてその子どもたちの中から、いつか地球を救うヒーローが現れるかもしれない。この期待こそが、ぼくの原動力です。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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