Sotto

Vol.49

「Gallery éf」オーナー

村守恵子さん

人好きな蔵と私たち

四人姉妹と浅草と蔵

祖父は1926年に浅草のこの場所で渕川金属事務所という金属の会社をはじめました。蔵はもともと材木問屋のもので、江戸時代に建てられて、関東大震災や第二次大戦でも焼けずに生き延びました。26年前に私の父が亡くなり、私たち四人姉妹で話し合って、会社と蔵を引き継ぐことにしました。蔵はギャラリーにして、駐車場だったスペースにはカフェを。改装修理をするために中を調べると、蔵が慶応4年(1868年)に建てられたものだとわかりました。

引き継いだ当時の蔵の中は、いるのかいらないのかわからない金属のくずや道具、飛行機のプロペラ、そういうものが天井まで積み上がった状態でした。大工さん、漆造形作家さん、私たち家族とガムランの仲間たちでみんなボランティアで修理して、蔵がまた使えるようになりました。当時はみんなとても活力に満ちていて、いまでは考えられないくらい(笑)。蔵は息を吹き返し、カフェには毎日お客さんが集い、多くのアーティストが訪れるようになりました。

蔵は本来、モノを保管する場所だから、人を嫌う。でも、ギャラリーとなったことで人が出入りするようになって、すっかり人好きな蔵になったみたい。蔵が自ら人を呼び集めるようになりました。

 

蔵の改修に携わってくれた仲間とともに。最前列右からふたりめが恵子さん(撮影=塩澤秀樹、1997年)

 

蔵を愛した人たち

蔵を引き継いだときに、過去帳や資料を元に蔵の歴史を調べました。最初に蔵を建てた材木問屋は私たちと同じ女系家族。材木問屋の娘さんたちは、母親のい勢さんに十文字の戒名をおくっていたそうです。そんなこともあってカフェの名前にFuchikawa(渕川)の「F(エフ)」、Female(女性)の「F」を入れたの(笑)。不思議なもので、蔵を改装するという記事が新聞に載ったら、材木問屋のご家族が連絡をくださって、直接お会いすることができたんです。

この蔵で最初に個展を開いたのは写真家の塩澤秀樹さん。改装のときに蔵の撮影をしてくれたのがご縁で、この蔵をとても気に入ってくれました。入ってすぐの正面の壁に“満月のヒマラヤ”という作品を飾ろうとしたら、サイズが大きすぎて蔵の入り口から入らなくてね。持って帰ってもらって、3枚に分解して蔵に入れたの(笑)。それからはたくさんのアーティストがこの蔵で自分を表現してきました。

ギャラリーをはじめたい、と言ったのは娘の泉でした。海外のアーティストとの架け橋になってくれて、海外からも人が来るようになりました。「外国のアーティストとは喧嘩ができないとダメ」ってよく言ってたっけ。泉がいなくなってからは海外の方とのやりとりは難しくなってしまったけれど、蔵を愛してくれている人たちがいまも訪ねてくれます。

 

手前から、泉さん(娘)、晶子さん(妹)、恵子さん。蔵の梁に慶応4年建立と墨書あり(『散歩の達人』より、1998年)

 

蔵の生き方は蔵が決める

この蔵は今年の12月31日に閉めることになりました。歴史のある蔵だから浅草に残してほしいと言われましたが、この先も私たちだけで蔵を維持するのは難しい。わたしの代でできることは終わりです。蔵を大事に思ってくれている人に相談したら、移築するなら手元に何も残さないこと。蔵には精霊たちが宿っているから、まるごと再構築したらかならず戻ってくる。そう言ってくれました。蔵をまるごとそのまま引き取ってくれる人がいればと思って探しましたが、難しくてね。もうだめかもしれないと思ったときに、調布の深大寺の住職とご縁が生まれて、蔵の移築先が深大寺に決まりそうです。

わたしは25年前にこの蔵に呼ばれたのだと思っています。これまでと同じように、これからの生き方も蔵自身が決めるでしょう。いつも年末には仲間が集まって、蔵の大掃除をしています。それも今年で最後。大みそかには蔵を愛してくれたみんなと一緒に蔵の中でお酒を飲もうねって話しています。この蔵は酒好きなんですって!

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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