Sotto

Vol.48

行をする者

村上清さん

本物の仏像を彫りたい。

ひとりになって見えたもの

薪がたくさん積んであるのは、不安の表れです。都会だと、前もって何かを準備する必要がありません。なんでもすぐにコンビニで手に入りますから。ここは標高1000m、冬場は氷点下18度くらいになる日もあります。木を伐って、割って、並べて、乾かして。準備に2年はかかります。それを怠ると、かなり痛い目にあう。農作業もおなじですよね。そういうサイクルが、それまでの自分の生活にはあまりにもなかった。

ひとりで焚火をながめながら、ナナを撫でて、ビールを飲む。生きててよかった、と実感する時間です。あとは死ぬまでいかに楽しく準備していくか。死を自然に受け入れる準備が自分の中ではじまっているのは、いいことだなあと自分でも思います。一方で、ナナは12歳の老犬なので、きっとナナが先に死ぬ。それは、想像するだけでおかしくなるくらい怖いことです。大切な存在がなくなる――。それを乗り越えることが、差し迫った課題のひとつかな。

この家は彫刻家の先輩が、大きな仁王像を修復するための工房として建てたものです。7年ほど前に先輩が亡くなって、ちょうどそのときに自分にもお寺の仁王像を復刻する仕事が入ったこともあり、譲り受けることになりました。高さ5mの像を2体。仏像修復専用の工房はほとんどないので、運がよかった。仏さんの縁って不思議で、必要なときにふっとつなげてくれる。まさに仏縁です。

 

肩書、収入、評価。表現に集中しようともがいた20代(ローライフレックス、自撮り)

 

50歳定年。肩書きをやめる

平等院の仕事が終わってから1年間ほどは、なにもできなくて苦しみました。いわゆる燃え尽き症候群です。11年にわたって、ものすごい緊張感の中で仕事と向き合っていましたから。40代前半で仕事を終えてから考えたのは、50歳で定年退職すること。会社勤めじゃないから、定年は自分で決めればいいんですけどね(笑)。それで今年の1月に50歳になって、そこでまた考えたのは、「佛師(ほとけし)」や「彫刻家」という肩書きをやめることでした。

だからと言って、日々のやることは変わりません。定年って言ってみたり、肩書きをなくしたりしたのは、仕事にもっと責任感を持ちたいからこそなのですが、でも、生きること自体がすごく楽になりました。妬みや羨み、お金に関しても余計なことを考えなくなって、表現することに集中できるようになった。はじめて“自分”ができたのだと思います。

こうして薪を燃やしながら暮らすというのは、言ってみれば、毎日のように送り火をしているということなんですね。ここに霊が降りてきて、また送り還してあげる。と思うと、やっぱり形は大事なのかな。でも、意味もわからずはじめたことが、だんだんと形式になるわけで、だから、祈りの形は自由でいい。みんなもっとリラックスすべきです。

 

平等院の雲中供養菩薩像に出会い、没頭していたころ(1990年代後半、学内のア
トリエにて)

 

これからは毎日が「行」

仏像というのは不思議なもので、つくった側のエゴや技術のうまさが出てしまうと、すぐに飽きられて、拝まれなくなる。それはつまり、仏教自体が軽んじられるということです。祈りの対象物である仏像は、最終的には人が行き着いて手を合わせるものだから、より崇高じゃなきゃいけないと、ぼくは思い込んでいます。つくればつくるほど自分の技術も経験も高まるけれど、そんなに気軽につくっていいのかと。1000年前と同じような素材と技法を用いて完成させても、なにかが足りない気がする。それがすごく嫌で、恥ずかしくて、申し訳ない。だから、簡単につくりたくないんです。かっこよく言うと、本物の仏像を彫りたい。この世に、あたかもずっと昔からあったように、自分の彫った仏像が自然に存在してほしいと思うんです。

かつて大仏の建立が国家事業だったように、仏像がひとつ出来あがるのは大イベントなはずで、そういう依頼があったときのために、それに耐えうる準備をしておく。毎日が本物をつくるための「行」であり、人生そのものが「行」だと思って生きるつもりです。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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