Sotto

Vol.37

コミュニティをつくりだす人

メリー香織村尾さん

いつか、母の小説を完成させたい。

日本の暮らしに奮闘した母

母はアメリカのミズーリ州出身で、アメリカで日本人の父と出会い、結婚して1976年に日本にやってきました。祖父母といっしょの家に暮らしていたときは、お風呂を薪で沸かすことにびっくりだし、自分だけの部屋がない家での生活に、日本の独特のしきたり……。当時は海外の食材を扱うお店も周りになくて、家族との食生活の違いなどで困ったことも多かったと思います。

祖父母と離れて暮らすようになってからは、自宅で英会話の先生をしながら、庭で野菜を育てて、アメリカの文化や食事を教えてくれました。サンクスギビングやクリスマスもお祝いして、ホームパーティをしたり。母は英語で会話をするし、海外の食事が出てくるから、異文化を体験できたみたいで、友だちも来てくれました。香織ちゃんのお家ならお泊まりしてもいいよ、って言われていたみたいです。

夏休みはいつも2か月くらいアメリカの母の実家で過ごしました。フリーマーケットに行ったり、魚を釣ったりして、とにかく楽しかった。日本では大変なこともたくさんあったけど、海外で広い世界や考え方に触れて、前向きな気持ちになれました。

 

クリスマスディナーパーティ、1982年12月25日

 

外国人が日本で介護を受けることは難しい

母は62歳で「若年性アルツハイマー型認知症」の診断を受けました。もともと日本語はそんなに得意ではなかった上に、認知症で言葉がうまく出てこなくなりました。母との会話はすべて英語だったから、日本で外国人が介護支援を受けるのはとても難しいということを知りました。それでも英語で会話ができる地元の留学生たちと交流して、デイサービスに通って、近所の方々に支えられながら過ごしました。

わたしが結婚して東京に住むようになってからは、月に一度帰省したときにホームパーティを開いて、母のストレスが少しでも軽くなるようにしていました。

父が亡くなってからは、わたしと夫といっしょに住むために、母の東京移住を決めました。わたし自身は日本で生まれ育ったので英語が得意ではなかったけど、母が認知症になってからは自然と英語力が高まっていて。自分でもびっくりしています(笑)。

 

夏休み、アメリカの祖父母のところへ帰省

 

外出が難しいから、ホームパーティ

東京での暮らしはゼロからのスタート。認知症の母にとっては、知らない土地で外に出ることは簡単ではありません。でも、コミュニケーションがとれる環境をつくりたかった。日本に来て、一からコミュニティを築いていった母の姿を思い出して、わたしも積極的にいろんなところに出向きました。

ひとりでいても世界は広がらない。東京でもホームパーティを開けるように、気持ちを新たに、楽しいことや自分の求める何かを実践していこうと思いました。ひとりでは無理だったことも、つながりができることで少しずつ実現できるようになって、気持ちも楽になった。ホームパーティはいいことだらけです。近所の方や英語を話せる方が毎月集まって、母といっしょに楽しく交流しています。楽しいことって、だれかといるときのほうが多いんですよね。寄り添って、いっしょに歩んで、楽しみを見つけて。きょうも一日楽しかったと思えるよう過ごしていきたいです。

そうそう。母は日本に来てから20年以上にわたって小説を書き溜めていました。タイトルは『THE FAR SIDE OF THE HEART』。まとまった文章になっていないのと、わたしの読解力が追いついていないのとで、ちゃんと読めてはいないんですけど、母が日本で体験したことや苦難、感じてきたことが書かれていると思います。落ち着いたら、いつか、この小説を完成させたいと思っています。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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