Sotto

Vol.36

ナレーター・帽子作家・シンガーソングライター

有馬ゆみこさん

毎日をもっと大切に生きよう。

生意気だった子ども

父の仕事の関係でカナダで生まれて、その後も転勤でいろんな国で暮らしていました。日本に帰るのは年に1回くらい。両親の故郷の高知県へ。祖母に会うのも年に一度。当時のわたしは、「外ではいい子、家のなかではとにかく生意気な子」でした。世界は自分を中心にまわっていると思っていましたね、全然そんなことないのに(笑)。

母方の祖母は高知の佐川町で暮らしていて、とってもひょうきんな人でした。いつも大きな声で五木ひろしさんの歌を歌っていたのを覚えています。孫がたくさんいたからわたしの名前がでてこないことも多かったな。日本に帰国してから、『ゆめいっぱい』がヒットした20代の頃は、とにかく忙しくて。祖母には何年も会わないまま、最期を迎えてしまいました。後になってから、どうしてもっと優しく接することができなかったのか、と強く悔やむようになりました。

 

1973年ころ、武蔵小杉にて

 

なんでも相談できる先輩

歌の仕事は6年ほどでいったん辞めて、演劇の世界へ。演出家の一の宮はじめさんと出会ってからは「演劇集団シアターワン」の団員になって、“歌あり・笑いあり・涙は……なし!”の、楽しくて優しさが詰まった舞台を全力でやりました。

そのころに出会ったおもしろい先輩がいてね。先輩はパーカッションをやっていて、わたしは学生時代にバンドのボーカルをしていたこともあって、すぐにメンバーのみんなと意気投合したんです。後々、大学の先輩だったこともわかって、それからは仕事の話から恋愛の話まで、なんでも相談に乗ってくれて、意見をもらっていました。わたしが出演する一の宮はじめさんの舞台も観に来てくれた。最前列に座って大声で笑っていた姿はいまでも鮮明に覚えています。そんな先輩がある日、43歳という若さで突然亡くなってしまったんです。過労だったのかもしれません。もしもいま先輩が生きていたら、世の中をどうみているだろうって。いまでも先輩の意見を聞きたくなります。

その後も舞台は好きで続けて、ときどき奇抜な衣装で舞台に立ったりもしていました。あまりに奇抜な恰好をしたときには、観に来た母からは「世も末だねえ」なんて心配されたり(笑)。でも、舞台が楽しくて仕方ないんですよね。

 

2016年、渋谷伝承ホール(『母と娘のコンサート』にて)

 

人は変わることができる

いまは舞台やナレーションといった芸能の仕事だけでなく、帽子づくりもやっています。あるとき、新幹線にお気に入りの帽子を忘れてしまって。探したけど見つからなかった。同じものはもう売っていないし、新しく気に入る帽子にも出会えない……。そうか、ないなら自分で帽子をつくってみよう! それで、まずは持っている帽子を解体して型紙のパターンを独学で勉強しました。その後、縫製の学校へ通ってから、横浜で帽子工房をはじめました。

最近はリメイクのオーダーを受けることも増えてきて、亡くなったお父さまが愛用されていたツイードのスーツを帽子にリメイクしたこともありました。大切な人の大切なものを違ったかたちで長く使い続けられるようにするって、帽子作家としてとても貴重な体験をしているといつも思います。

先輩の死をきっかけに祖母や昔のことを思い出す機会が多くなりました。歳を重ねて、昔を振り返ると反省することだらけです。わたしは本当に生意気だったなあって。でも、遅いけど、それに気づけただけでもマシだったのかな。

人は変わらないといけない。成長しないといけない。自分に言い聞かせています。こうやってふとした瞬間に大切な人を想うと、自分がこれからどう生きていくかを考えるし、もっとていねいに一歩一歩生きなくては、という気持ちになります。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

Share

So storyでは
読者のみなさまのご意見、ご感想をお待ちしております。