Sotto

Vol.22

グループリビング みたかの家

竹内碩子さん

強く育ててくれた母と、解きほぐしてくれたふたり

自分の力でなんとかしなさい

母は大正7年生まれ。当時にしては珍しく、語学が堪能で自立した女性でした。料理が得意だったものだから、戦後は米軍基地に住む将校の奥さまたちを相手に料理を教えていました。それから、教会に通う女性たちのために、おしゃれなハンドバッグや帽子、毛皮の専門店まで基地の中に開いてね。戦後のたいへんな時期を生き抜くことは、計り知れないほど大変だったと思います。そんな忙しい母だったから、わたしの学校の授業参観に来ることは一度もなかった。私に何かあっても黙って見ているひとでした。幼いころはそれが恐ろしくもあったけれど、自分の力でなんとかしなさいってことでしょう。母のおかげで私は気持ちを強く持って成長することができました。

 

 

解きほぐして、薄めて、導いて

小学生のころ、私は髪の毛は赤茶色だったの。目の色も少し人と違っていた。それが原因で、同級生や先生に「混血だ」って後ろ指をさされて。ずいぶん辛い思いをしました。敗戦直後だったし、田舎だったから……。人間は必ずしも清く正しく、美しい心だけではいられないでしょう。そんなこともあって、かなりひねくれていた時期がありました。

中学からはミッションスクールへ。そのときに赴任してきた若い先生が、私にとって姉のような存在になった。不思議と彼女には素直に接することができたんです。翌年に、当時まだ医学生だった彼女の婚約者が私の寮を訪ねてきたことがあって、彼にも可愛がってもらえてね。それ以来、ふたりとはずっと付き合うことになった。彼らの子どものお世話もわたしが手伝ったくらい。まるで家族のような関係です。私の心を解きほぐして、嫌なところを薄めて、自然に導いてくれたふたりのおかげで、いまの私があると思っています。

 

 

大切な人のことは忘れない

母は70歳でこの世を離れました。自宅で看病していたから、亡くなる時が近づいているのを実感していました。毎日、犬の散歩をしながら泣いていたのを覚えています。母は熱心なクリスチャンでしたから、わたしは「どうして母を連れて行くのですか!」って、神さまに訴えていました。わたし自身はキリスト教徒ではないし、宗教とは距離を取った生き方をしてきたからでしょうか、母が亡くなった後、遺骨を手放せなくなって、20年近くも寝室に置いていたんです。お墓には入れたくなかった。生きていた頃と同じように毎日語りかけてね。いつか私と一緒に埋めるなり、散骨するなりしてもらおうと思っていました。

でも、ある日、母の人生はすでに完結しているんだ、と気づきました。母はもう自由になっていいんだ。完結した母の人生に、娘とはいえ私が入り込む権利はないのではないか。そう思うようになってから、やっと母の遺骨を手放して、お墓に収めることができました。たとえ離れていても、生きていなくても、大切な人のことは忘れない。自分が想っていれば、通じ合えているような気がします。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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