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Vol.8

手紙寺・住職

井上城治さん

胸を張って生きろ。

一度も書いたことのない手紙

手紙寺を始めたきっかけは、昔の恋人への想いです。迷惑をかけてばかりでしたが、その人には、自分が自分に言えないことを言ってもらえた。そんな気がしています。直接手紙を書いて渡したことはありませんでしたが、後になって、もう届くはずもない手紙を書くようになりました。書いては燃やして、捨てて。いまでも若い頃の気持ちを思い出して、手紙を書きます。初心に還ることができますよ。

23歳のときに父を癌で亡くしました。そのときも手紙を書きました。生きている間は一度も書いたことなんてなかったのに。父へ宛てた手紙を書いているときに、ふと気がつきました。手紙に書いている内容はいつも自分の想いばかり。手紙というのは、いまの自分自身の心をさらけ出すためのものだ、と。

 

 

心と向き合い、自分を取り戻す

ある人に、「だれかを思い出したいなら、山に行って何回も自分の名前を呼んでごらん。そのうちにあなたが想う人の声に変わるから」と言われました。それで、山の中で「ジョウジー、ジョウジー」って何度も叫んでみたら、父の声になった。そういう気がしただけかもしれませんが、わたしにはたしかに父の声に聞こえて、涙が出てきた。自分の声ですし、自分の気持ちだけしかないのに、不思議なものですね。いくつも父の言葉が蘇ってきました。「胸を張って生きろ。何があってもお前はお前だろ」「ごまかすなよ」。そんな言葉が次々に出てきて。手紙も同じです。自分の想いを書いているだけですが、その時間は相手と対話しているのと同じ。自然と心の声が聞こえてきて、自分自身と向き合うことができる。

 

 

手紙を書くための場所をつくる

届かない想いを手紙に綴るために、よく空港に行きました。大切な人と別れた場所だった、という理由もありましたが、空港は人がどこかへ向かう旅路のはじまりだから。私にとっては心が落ち着く場所でした。父が亡くなった病院にも何度か足を運びました。父と対話をするような感覚です。

手紙を書くには空間のしつらえが大事だと思っています。街中にあるせわしないカフェで手紙を書くのは難しい。それなら、お寺が手紙を書ける場所になればいいんだと。手紙は自分の想いを自由に綴る。その感覚はお墓参りに少し似ています。お墓参りにきた人が、すぐに帰ってしまうのではなく、ゆっくり手紙を書いて故人と語り合う空間があったらと。そして〈手紙参り〉が生まれました。

 

父からのラストレター

 

20年越しの手紙

ちょうどお寺の経営が難しくなっていた頃、父の七回忌がありました。「阿弥陀さんの上に手紙を置いておくから、俺が死んだ必ず見ろ」。突然、父の言葉を思い出しました。お金だったら嬉しいな、なんて。器の小さなことを思いながら夜にこっそりお寺へ行きました。阿弥陀さんの上を手で探ると、ほんとうにありました。黒くなった木の板に、「後継に告ぐ 證大寺の念仏の灯を絶やすな」。私が9歳のときに父が残したものでした。その言葉は当時の自分にとって一番必要だったものです。自分の手から離れそうになっていたお寺に、もういちど本腰を入れる決心ができた。

父は自由に生きた人でした。もっと真面目にやってほしいと思ったこともありました。でも、自分の自然の姿を隠さないのが父のやり方でした。私が父から離れて仏教を学ぶようになった頃――、父が命の最期に向かっていた頃。嘘のない父の言葉がだんだん心に響くようになってきました。仏教に出会ってなければ、父とはケンカ別れしていたかもしれません。「生涯聞法(しょうがいもんぽう)」。父の最期の言葉、父らしい言葉です。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)