第9夜
希望の声
分厚いカーテンも、障子も、ガラス戸も閉じたまま、夜明け前の光がぼんやりと染み込んでくる部屋で、わたしは畳の上に寝ころんだまま、昨晩君が口にした言葉を頭の中で繰り返している。いまのぼくには、生きる希望がないんですよ――。
ホー、ホケキョ。
それにしてもなんとまあ上手に鳴くことよ。春先のウグイスはまだ声も細くて、ホケキョの「ケキョ」と裏返るパートなんかは、少しもつれたりして初々しくて、春の目覚めによく似合う声で鳴いていたのに、初夏のころにはすっかりたくましく、美しく、堂々と。濃い緑の森の中から、いまこのときの生を謳歌する声が、さあさあ、あなたはどうですか、と遠慮なしに押しかけてくる。
わたしが生まれたまちでは、小さいころからアスファルトの道を歩いて、コンクリート造りのマンションに住んで、学校の校庭はゴムみたいなカーペットが敷かれていた。足元が大地から切り離された暮らしの中で、たぶん、人としての、動物としての、自然の産物としてのわたしの本能がそうさせたのだと思うけれど、すき間を見つけては逃げ出すようにまちを飛び出して、山に登り、川で遊び、田んぼを飽かずに眺めた。そして、住み慣れたまちに帰って、ずっと考えている。生きるって何だろうって。
山のあなたの空遠く
「幸(さいわひ)」住むと人のいふ。
噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。
――カール・ブッセ(上田敏 訳)
それで、こういうことだ。人は、人デナイモノに囲まれて生きている。人が人だけの輪の中で生きているつもりなら、それはちがう。わたしたちはもっと大きな輪の中にいて、たくさんの〈デナイモノ〉たちに見守られている。そして、デナイモノたちの声が聞こえなくなったときに、人は希望を見失う。だから日々の暮らしのことでも、仕事のことでも、将来のことでも、どうにもうまくいかないときには、デナイモノたちの声にじっと耳をすませて、そうして、夜が明けるのを待つんだ。
希望はどこかを探して見つかるものじゃない。だれかの指さした先にあるものじゃない。希望はじっくり湧いてくるものさ。
🖊 平野有希