第13夜
釘ひとつ
劫初より作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘ひとつ打つ
――与謝野晶子
仏教で〈最も長い時間〉を表すことばを「劫(ごう・こう・くう)」という。どのくらいの時間かというと……。
❝ここに一辺が四十里(160キロメートル)四方の大きな四角い石がある。その石を百年に一度、ごく薄い羽根でさっと払う。何度も払っているうちにだんだんと大きな石がすり減って、すっかり地面とおなじになっても、まだ「一劫」は経過していない。❞
どれほどの時間を重ねたら、一劫が経つのか想像もできないけれど、とにかく劫初(ごうしょ)は、その最も長い時間のはじまり、つまりは、ずっとずっと昔から、という意味で、反対に、永劫(えいごう)といえば、終わりが見えないくらいずっとずっと先のことだ。
でも、それは永遠ではない。ものごとには必ずはじまりと終わりがあって、たとえそれがどんなに長く長く、長く続いても、いつかどこかにはじまりがあって、いつかどこかで終わりがくる。明けない夜はなく、止まない雨はない。ただ、その夜更けの、その雨の通り過ぎる時間的感覚は途方もなくゆっくりしているから、わたしたちは待ち切れずに飛び出してしまう。
年の瀬はせわしない。自然がつくりだす季節の変わり目のゆらぎやグラデーションとちがって、暦はデジタル、かっきりに切り替わる。こちらも乗り遅れまいと気がはやる。流れの速さに合わせて、せわしなくあちこち動かしていると、この一年のあいだに拾い集めて、そのままにしておいたいろいろが転がり出てきて、その中に釘がひとつ。
わたしの釘は木の釘で、打てば的を外れてひん曲がる。それでもわたしは自分の釘を打ちたくて、打ってみたくて、そうして、これはわたしが打った釘なのだと顔を上げてみたい。わたしが生きていた証を世の中に残しておきたい――。と、手のひらの釘をしげしげと眺めているうちに日が暮れた。
漆黒の空へ息を吹きかける。その息の白さは、生きているいのちだ。いまを生きている、そのうちに、釘を打つがいい。黄金でなくとも、殿堂でなくとも、打つがいい。その音高らかに、夜明けを告げる鐘が鳴る。
🖊 平野有希