Sotto

想雲夜話

第12夜

森と空のあいだ

 

わたしたちは受け取る情報の8割を視覚に頼っているというから、朝起きて夜寝るまでのあいだに、どこを見るか、なにを見るか。ちょっとした目のやりどころが、知らず知らず、自分の生き方をかたちづくっているのかもしれない。

 

“Man sieht den Wald vor lauter Bäumen nicht.”(ひとは木ばかり見て森を見ない)

――ドイツのことわざ

 

なるほどいかにも、森とともに生きてきたドイツ人らしい表現だとおもう。赤ずきん、ヘンゼルとグレーテル、白雪姫。みな、森に入り、森で迷い、森から逃れる。森に入る理由はそれぞれちがっていても、みな、森で迷う。帰り道がわからなくなった、と。いちばん大事な帰り道を見失ってしまう理由は、こうだ。はじめはひとつの森だったものが、たくさんの一本ずつの木に変わったから。

目の前の木が大きければ大きいほど、一本の木に近づけば近づくほど、森は見えなくなる。さっきまで見えていたはずのものが、いつのまにか見えなくなってしまう。目の前のことにとらわれているうちに、物事の本質や大きな目的を忘れてしまう。その様をたとえて、「木を見て森を見ず」と言った。

それならばと、こんどは森ばかりを見ていたらどうだ。やっぱり息がつまってくる。全体のことが気になって、目の前のことがおろそかになって、心ここにあらずですよと指摘されて、はたと我に返る瞬間――なんのために森を見ていたのだったか――。たぶん、木も森もどちらも大事なのだ。一事に全力で取り組むことも、万事を見据えて取り組むことも。さて、どうしたものか。

森を見たら、こんどは空を見るといい。いま自分がどこにいるのか。なにをしているのか。なにをすべきなのか。なんのために、ここにいるのか。それがわからなくなったら、空を見上げるといい。木々の隙間から見える空には鳥が飛んで、雲が流れて、自由に、のんびりと。風の音も聞こえてきて、けれど、どんなにあこがれて、どんなに手を伸ばしても、けっして空には届かない。だからこそ、そうだ、だからこそ、目の前の、手の届くものがいっそういとおしい。

そんなふうに森と空のあいだを行ったり来たりしながら、わたしたちはきょうも息づいている。

 

🖊 平野有希

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