Sotto

想雲夜話

第5夜

繰り返して、繰り返して、続いていく。

 

冬来りなば春遠からじ

――シェリー

 

冬と春のちょうどの境目がどこにあるのか、目を凝らして探してみたら、冬至に行き当たった。ここまでが冬ですよ、ここからが春ですよ、と。生きることも、死ぬことも、出会いも別れも、そんなふうにわかりやすく示されていたら、どんなにか気持ちの準備ができるだろう。それがわからないから、人は自ら区切りをつくり、気持ちを整理する。

わたしが生まれた日も冬至だった。小学生のころ、冬至は一年のうちで最も昼間が短い日なのだと知って、一年でいちばん暗い日、夜がいちばん長い日なのかと、どんよりした気分になった。それから少し歳を重ねると、こんどは、冬至を境に昼間が長くなっていくところに目をつけたのか、冬至は復活のはじまり、再生のはじまり。この日に生まれた自分も、きっとそういうふうに新しい時代を切り拓いていくのだ、と考えるようになった。その後、時代の開拓者として活躍した記憶はないが、ものごとの捉え方というか、見方の違いひとつで、気分がずっと明るくなったことは間違いない。

それから、こうも考えるようになった。生きるというのは、気分がふさぎがちになったり、だんだんと元気になったりする、そういうことの繰り返しだ。その小さな繰り返しは、大きな繰り返しの一部で、その大きな繰り返しは、もっと大きな繰り返しの一部で、そのもっと大きな繰り返しも、やはり……。そうやって、いのちは繰り返して、繰り返して、繰り返して、続いていく。

もちろん、いまを生きているわたしにとっては、小さな繰り返し――目の前の悲しみとか、手の届く範囲の心配事とか、ぼんやりした気がかりとか――が日々の悩みや苦しみの原因になっているのだけれど、大きな視野に立ってみれば、これまでも、そしておそらく、これからも、たくさん、数多く、限りなく繰り返される出来事の一部にすぎないのだから、いま自分が抱え込んでいる悩みや苦しみも、実はさほどスペシャルなことでもないのかもしれない。そう思えば、気持ちの落ち着かせどころも見つかろう。

「冬来りなば春遠からじ」と、口にするだけで、生きる力が湧いてくるような気がする。たったそれだけのことなのだけれど、そのほんの少しの、ものごとの捉え方、見方の違いひとつで人は前を向ける。生きるとは、なんと不思議なものか。

 

🖊 平野有希

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