Sotto

Vol.103

医師

孫 大輔さん

そばにいても、会えなくても、対話。

対話と哲学

興味がわくと深掘りしたくなる性格です。自分が知らないこと、よくわからないと思うものほど学びたくなる。哲学の本が好きなのは、一見何が書いてあるかわからないから。大学生のときに初めてハンナ・アーレントの『人間の条件』を読んだのですが、さっぱりわからなくて10ページで挫折。40歳になったころに読み直してみたら、けっこうわかるような気がした。年を経たせいか、哲学の基礎知識がついたせいか、最初のときほどちんぷんかんぷんではなかった。本の中身の40〜50%が理解できている状態のときが、いちばんおもしろい。いろいろな哲学の本を読んでいるうちに、自分がほんとうにやりたかったのは哲学じゃないかと思うようになりました。

 

興味がわくと――モバイル屋台を引いて、お花見の会(2018年、谷中霊園)

 

ぼくの後半生のライフテーマのひとつは〈対話〉です。病院で患者さんの話を聞くだけでは限界があると感じていたので、2010年ころから実践してきました。いわゆるカウンセリングの目的は治療ですが、対話の目的は、何かをよくすることではなく、対話を続けることそのもの。すごく哲学的ですよね。対話という形式をはじめたのは古代ギリシャのソクラテスですから、対話と哲学は深い関係があって、やはり哲学を学ぶことはすごく役に立つのです。ぼくにとって、哲学は、たぶん死ぬまで続く学びだと思います。

 

家族は自分

家族だから、いっしょに住んでいるから通じ合うかというと、そうじゃないところもある。それで、ふだんは言葉にできない想いを伝えるために、毎週日曜日に1時間、家族と話す時間をつくっています。ふだんの会話モードではなく、〈対話〉モードにして、ニュートラルに相手の話を聞く。相手に向きあって、相手の言葉を全身で受け止める。その姿勢でいると、聞き流すことができないのです。相手が深い部分で望んでいること、考えや気持ちを言葉にして、お互いに確認する。交換日記もしています。平日の日中に何をしているか、そのときに何を感じているか、家族でもわからないことは多い。それでもまだまだ、コミュニケーションは足りないかな。

家族をいかに幸せにできるか、最近よく考えます。家族は自分だから。家族を傷つけたら自分も傷つく。家族を大切にするように、自分も大切にしなくちゃいけない。自分の生きる目的や幸せは、家族の幸せです。ついつい忘れて、自分の好きなことばっかりやってしまうんですけど。

 

おばあちゃんだったら、こう言うんじゃないかな(1977年、佐賀)

 

自己の存在

父方の祖母は、在日コリアン一世で、一族みんなから慕われて大黒柱のような存在でした。ぼくが子どものころは近くに住んでいて、とてもかわいがってくれました。ある日、ぼくと妹がおばあちゃんの家で遊んでいたとき、妹が階段から飛び降りた拍子に、釘に足を引っかけ、血がダラ~っと流れた。それを見たおばあちゃんが、「あちゃー」とか「ありゃー」という意味の韓国語で「アイゴー、アイゴー」って言いながら絆創膏を探すのですが、見当たらない。それで、なぜかピップエレキバンを貼った(笑)。なんとかしなくちゃって思ったのでしょうね。愛情深い人でした。ぼくが小学校3年生のときに亡くなりましたが、いつも見守ってくれているんじゃないかな。いまでも、こんなとき、おばあちゃんだったらこう言うんじゃないかなって、心の中で対話しています。

 

自分がほんとうにやりたかったのは哲学じゃないか(2023年、米子・皆生海岸)

 

人と人の出会いや交流は、実際に会ったり、電話で話をしたりするとき以外にも起きていると、ぼくは思います。だれかを想えば、物理的にそばにいなくても、深い存在レベルで出会っている。お互いが想いあっていれば、交流は起きている。こちらの勝手な想像の場合もあるけれど、それでも意味がある。自己は他者との相互作用の中で存在するものだから。特に家族など近しい人との対話は、人間にとってものすごく大事なことだと思います。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

 

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