Sotto

Vol.101

新聞記者

駒野剛さん

それが芸風ですから。

敗者の深みと墓碑

ちょうどバブル経済のころに経済部に配属されました。兜町で取材をはじめたのが1987年ですから、NTT株の上場などがあって、株価がどんどんどんどん上がっていく、「大活況相場」と呼ばれていた時代です。そこから後は陰りが見え始め、あっという間に株価が暴落。東京証券取引所の株価ボードの全銘柄が値下がりを示す色に――。わたしの記者人生はそこから始まりました。

わたしが見てきたもの、それは人々が負けていく歴史です。人生には勝つときも、負けるときもありますが、だれもすき好んで負けるのではありません。どんなに一生懸命やったって、どんなに才覚があったって、ちょっとした違いで負けていく。でも、その敗者たちの、その後の人生を見ていると、そのときに勝ち上がった人たちよりも、人としての深みを感じたものです。

 

誕生間もない新生ロシアの第一副首相エゴール・ガイダールへのインタビューの様子(1992年、モスクワ)

 

大手銀行や証券会社が破綻した金融動乱が続く2000年、某銀行のトップが自殺したとの報道がありました。銀行の舵取りを任され、大変な苦労があったのだと思う反面、その明るい性格から自ら命を絶つとも思えず、ついにお墓を訪ねることにしました。すると、墓碑には「誠意」という文字が刻まれていた。その文字を目にしたとき、立ち尽くしました。どれだけ一生懸命に働いても命を奪われてしまうような仕事が、あの時代にはあったのか、と。

 

お墓からのメッセージ

昭和初期のこと、立憲民政党の濱口雄幸は日本経済を立て直すために金解禁政策を掲げますが、アメリカ大恐慌の影響を受けたことで、政策は失敗に終わります。その後、濱口は東京駅で襲撃され、亡くなってしまう。その濱口のお墓は東京の青山霊園にあって、すぐ隣には盟友だった井上準之助のお墓が建っています。井上は大蔵大臣として濱口の右腕となり尽力した人物で、濱口が亡くなったあと、井上もまた総選挙の立会演説会で襲撃され、亡くなっています。同志として、同じような運命をたどり、また、自ら思うことをやり遂げたふたりは、あの世でも一緒に生きているのでしょうね。

 

この正月、久しぶりに両親の墓参りに出かけました。同じお寺に、母方の祖母のお墓もあるのですが、しかし、探せど、探せど、見つからない。住職に聞いても、わからない、と。いつの間にか墓じまいをしてしまったのだろうか。祖母は、わたしと妹が早くに母を亡くしたとき、「ふたりのことを守るのはわたしだから」と、ずいぶん面倒を見てくれました。もう二度と、ばあさんと会えないのか――。その虚脱感は自分でも意外なほど大きいものでした。

結局、祖母のお墓は見つかりましたが、そのときの〈失われそうになったお墓〉を通じて、生きている人と、死んでしまった人の会話は成立することを実感しました。人は生きているうちも大事ですが、死んでからもいろんなメッセージを、知らず知らずのうちに残しているのです。

 

その人が生まれた土地のものを食べ、酒を飲み、空気や匂いを自分の体で感じ取る

 

噓がつければ

わたしが新聞記者でなければ、亡くなった人を、お墓まで訪ねていくようなことはしないと思います。〈現場百回〉という言葉があって、何かあればすぐに現場に向かいます。記者の中には現場へ行かず、頭の中だけで記事を書く人もいるようですが、わたしはそれだけでは足りないと思います。話を聞いてみたい人がいれば訪ねていく、もし直接会えなくても、その人が生まれた土地のものを食べ、酒も飲む。そして、その土壌の空気というか、匂いというか、味わいというか、それを自分の体で感じ取る。そこまでして見ないと、見えてこないもの、わからないものが必ずあるはずです。

 

そういう地べたを這いずり回るような取材がわたしの“芸風”だから、それでダメならしょうがない。それともうひとつ、わたしは嘘がつけないのです。噓がつければ、どんなに楽だろうと思うけれど、つけないし、嘘が書けない。そのせいで、ずいぶん回り道をしました。でも、こんなわたしに、いろんな人がほんとうのことを話してくれるのは、その回り道のおかげかもしれません。

 

(聞き手=岡部悟志、撮影=平野有希)

 

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