Sotto

Vol.79

京都癒しの旅 案内人

下戸眞由美さん

自分の気持ちに嘘をつけない場所

どうもない、どうもない。

中学生のときに母が家を出ていき、続けて父も家を離れてしまいました。両親ともに悩んだ末のことだと思いますが、それからずっと父方の祖母とのふたり暮らし。複雑な子ども時代だったから、近所の人から優しくないことを言われても、自然と受け流してしまうような、大人びた子だったと思います。

祖母は明治の末に福井県の若狭で生まれて、奉公のために京都へ出てきました。装束の縫物を仕事としていたので、家でも着物や洋服をつくってくれました。子どものころから、とにかく厳しく育てられました。高校生のときに、自分のお小遣いで、好きな洋服や靴下を少しよけいに買って帰ったら、「そんなにいらんやろ、返してきなさい!」って。恥ずかしいやら悔しいやら、泣く泣く靴下を一足、お店に返しに行きました。うちは門限も厳しくて、社会人になってからも夜8時には家に帰らないといけなかったんです(ありえないでしょう!)。いま、そのときの反動が出ているのかも(笑)。

それでも祖母との暮らしは、わたしにとってかけがえのないものでした。わたしが落ち込んでいると、「お地蔵さんにお願いしに行こか」って連れていってくれたり、悩んで困っていると、「どうもない、どうもない」って言ってくれたり。祖母のことばはとてもこころ強かったです。

 

大人びた表情を身につけた子どものころ(1975年、13歳)

 

心と体のバランス、それでも

祖母は82歳で亡くなりました。29歳で結婚して、仕事も辞めて、祖母との生活を離れてから1年くらい経ったころでした。当時のわたしは心身のバランスを崩していて、そこに祖母の死が追い打ちをかけるように押し寄せてきた。毎日があまりにも辛くて、悲しくて、なにも手につかない状態でした。幸い、周りの方の温かいサポートで元気になることができてからは、自分のこともあって、心理学を学びに大阪まで講座にも通ったりしましたが、やっぱり旅行の仕事がしたいという気持ちが強くなるばかりでした。

それである日、京都の鈴虫寺をたずねました。そこのお地蔵さまにお願いをすると、ひとつだけ願いを叶えてくれると言われているのです。そうしたら、まだ鈴虫寺の境内にいるあいだに友人から京都を案内してもらえないかと電話がきたんです! そのときははじめてのことで、上手には案内できなかったけれど、がぜんやる気になって、いくつも仕事を掛け持ちしながらガイドの勉強をするようになりました。

だんだんとガイドの仕事も慣れてきた、そんなときに、こんどは夫の家のほうで不幸があったり、親の介護をするために遠距離を通わなければなくなったりして、仕事と家庭と介護との生活にわたしの体とこころが限界をむかえ、まったく動けなくなってしまいました。いったん仕事をぜんぶ辞めて、ゆっくりと京都のまちを歩いて、お寺や神社を巡って、好きなカフェをみつけて本を読んで、そうして少しずつ元気を取り戻していきました。

 

祖母はいつもやさしくて、心強かった(3歳ころ、京都府立植物園)

 

いい人生やったなあ

たくさんのことを経て、50歳で「京都癒しの旅」を開業しました。案内人をはじめてからあらためて平等院をたずねたとき、雲中供養菩薩象の姿に涙が止まらなくなりました。子どものころから何度も見てきたけれど、歳を重ねると感じることは変わるものですね。京都にはまちの中に手を合わせる場所がたくさんあります。感謝の気持ち、ありがたいという気持ち。自分の気持ちに嘘をつけない場所がたくさんあるんですよ。きっと旅をごいっしょするお客さまも同じように、素の自分にもどれるのではないでしょうか。

祖母は晩年に足腰が弱ってきて、大人数のツアーに参加すると周りに迷惑をかけるからと、旅行にいくのを遠慮するようになりました。それでもいつか行きたいと言っていた北海道に、わたしは仕事やなにかを口実にして連れていかなかった。そのことをずっと後悔しています。そういうこともあるのかな、人生の最期に、「いい人生やった」と思いながら亡くなることができたら幸せだなと思うようになりました。みんな、いい人生やったらいいなあ。みんな、最期は笑っていられたらいいなあ、そう思うのです。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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