Vol.108
釜石漁火の会事務局長
北村弘子さん
人なくして我なし
釜石が大好き
釜石は人種の“るつぼ”でね。“東北のニューヨーク”って言われるんですよ(笑)。製鉄所ができて全国から人が集まって、地元の人たちも働くでしょ。東北各地で言葉が違うばかりか、釜石市内でも東西南北で言葉は違います。言葉が違うということは、命に関わる。たとえば、急に、「ねまれ!」*と言われて、どうするか? ある人は横になって寝たそうだけど、命をかけて仕事をしているから、言葉が通じなくては困るのです。それで、わたしは“社宅弁”と呼んでいるのですが、製鉄所の社宅内で通じる共通語ができました。釜石は、よそから来た人を受け入れなくては成り立たない街。ウェルカムの気質があるのです。
*ねまれ=「座れ」の意。
わたしは釜石で生まれて、釜石で育って、釜石から出たことがありません。釜石に住んでいる人がよく、「釜石はなんにもねえがら」と言うけれど、その言葉を聞くのはツラい。釜石にはいいものがあるのに! 語り部をはじめたのも、釜石が大好きだから。お隣の遠野は民話で有名ですが、釜石とは古くから交流があって、『遠野物語』には釜石の話も出てきます。でも、遠野を真似るのではなく、釜石の民話を語りたい、聞いてほしいと思ったのです。それは奥が深くて、難儀な道だったけれどね。
『漁火の会』を立ち上げたのは15年前。わたしの師匠は、高校の同級生で親友だったロミのお母さんです。ロミは50代で亡くなるのですが、亡くなるすこし前に、「ほんとうはね、母の跡を継ぎたかったの」と、ぼそっと言いました。わたしは、「そうなったら、こんどはロミがわたしに(語りを)教えてね」と。けれど、その願いは叶わぬまま、ロミは逝ってしまいました。亡くなってから、ロミのお母さんにそのやりとりを伝えると、「おしえっから、こ」*と言ってくれたんです。1年間、喪に服してから、語り部の活動をはじめました。
*おしえっから、こ=「教えてあげるから、来なさい」の意。
かつての釜石の海は、夏場になると、我先にと明るい灯りをつけた、たくさんのイカ釣り船が沖へ出て漁をしていました。その光景を上空から眺めた人が、「釜石はなんて大きな町なんだ」って。漁火を街の灯りと間違えたのです。そんな逸話があるくらい、釜石を表すのは漁火だと思って、語り部の会の名まえにしました。
釜石を語る
実は釜石にもたくさん民話はあったのです。それが、明治、昭和、平成と街が津波に襲われるたびに、人も書も音も流されてしまった。かろうじて図書館などに残された史料は読み言葉だから、それを語り言葉に直して語るのが、今のわたしたちの役目です。15年かかってやっと「わたしのからだを通して語れる」という、自分の“三大語り”を持てるようになったかな。
2011年の震災の半年前に、漁火の会のメンバーに加わったのが、藤原マチ子さんです。藤原さんの家は相撲一家で、甚句が得意。震災後にふたりで釜石の旅館『宝来館』で民話語りをしたら、宿の女将(おかみ)さんから、「今度は甚句で震災を伝えてほしい」と頼まれてね。すぐに第1作ができました。それからしばらくは月1ペースで作って……。あのときの勢いはすごかったな。昨年、震災から十三回忌に10作目を発表して、ひと区切りとしました。
甚句を披露するときに着る長半纏は、震災で船と一緒に流され、砂や瓦礫に埋もれた大漁旗で作っています。船主の奥さんだった高校の同級生が、「船をやめたから使って」と、くれたものです。語りのときに着る長半纏には“祝”という字が背中に入っているけれど、震災甚句の長半纏には入れませんでした。同じように見えるかもしれないけど、わたしたちにとってはまったく違う長半纏です。
節目の出会い
人生の半分は、かんたんには話せないことばかり。でもそういう“語れないこと”は、竹の節目のような気がするのね。その節を乗り越えると、竹は伸びる。ロミや師匠と出会って、『漁火の会』を続けられたこと。藤原さんやおかみさんと出会って、甚句を10作も発表できたこと。きっと節目のない人生はなくて、わたしの節目にも、それぞれに、人との出会いがありました。
なにがいちばん寂しいって、孤立することです。被災地でも、忘れ去られることがいちばん悲しい。人の温かさを感じられること、人の想いが伝わることがどんなに幸せなことか、身に沁みています。人(他人)なくして我なし。今のわたしは、みなさんに導かれて作ってもらったようなものだね。やっぱり、出会いってすてきね。
(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)