Vol.93
グラフィックデザイナー
大歯雄司さん
最後まできれいで、ちょっと不思議な人でした。
優等生と退学届(吉岡と小林)
小学生のころは、何も考えずに先生の言うことを聞く、いわゆる優等生でした。社会に対する疑問を持ちはじめたのは高校の同級生の吉岡宏晃と出会ってから。彼の影響で政治とか社会思想の本もいくらか読むようになった。同時に映画も観るようになって、ゴダールの『ウィークエンド』とかね。わけがわからなかったけど(笑)。
それから、おいよりずっと出来のいい姉ちゃんも兄貴も行っていないのに、おいだけ大学に行かせてもらいました。しかも2年も浪人。だから、仕送りはいらないと言ってアルバイトをたくさんしました。舞台照明、映画館、家庭教師、甘栗屋、スーパーのレジ打ち――。そんなことばっかりしていたら、入学から7年半も経ってしまった。いくら計算しても卒業には単位が足りないから、学生課に退学届を出しに行くと、「ちょっと待たんね、まだ手はあるけん」と。「いや、もう疲れましたから」と言ったのを覚えています。
大学生のときに出会ったのが小林正でした。小林も2年浪人でね。京都から佐賀大学にきて、映画研究会をつくって。彼は映画館のアルバイトで貯めたお金で在学中にヨーロッパを旅するのですが、ロンドンに滞在しているときに、下宿先のふたりの兄弟のベビーシッターをしていました。そのお兄ちゃんのほうが、のちに映画監督になるクリストファー・ノーランだったのです(弟は脚本家のジョナサン・ノーラン)。数年前にクリストファーが来日した際に再会を果たしました、というエピソード付きです(笑)。
おいがいまも古湯映画祭をやったり、シエマの立ち上げに関わったりしたのは、吉岡と小林との出会いがあったから、そう思っています。
第1回富士町古湯映画祭。左に大歯さん、中央は富士町長(当時)の岩井長平さん(1984年、古湯温泉)
ひとめ惚れ
佐賀市民会館で舞台照明のアルバイトをしていたころ、そこに出入りしていた酒屋さんの娘の万里さんと出会いました。あるとき、まわりの仲間がセッティングして、大学の近くにある焼鳥屋さんで万里さんと食事をすることになった。おいのひとめ惚れです。それからしばらくして、諫早に新しくできる文化会館を担当することになって、佐賀を離れることになりました。仲間が開いてくれた送別会の席で、はじめて万里さんの連絡先を聞きました。
大学を出てから仕事に就いて1年ほど経ったころ、お父さんに会いに行って、「万里さんといっしょに暮らさせてください」と言うと、「おいはいま、あんたのこと殴ろうと思ったばってん」と。殴られてOKがもらえるならと思って、「はい」と答えて。けっきょく殴られなかったけど(笑)。
翌年の正月に、こんどはうちの実家に万里さんを連れて行くと、母は、「あんた、はよ結婚しんしゃい。万里さんの気が変わったらどうすんね」。姪っこには、「なんで雄司おじさんに、あんなきれいな人が……、びっくりした!」。お金がなくて式は挙げられないと思っていたら、みんなが出してくれて、福岡の実家近くの海のそばにあったレストラン「ラ・メール会館」で結婚式をして、新婚旅行で石垣島まで行かせてもらいました。おいが29歳、万里さんが27歳のときです。
結婚して間もないころの万里さんと大歯さん(1982年、東京)
ずっと、万里さん
万里さんはタバコとコーヒーが無いと生きていけない人。おとなしそうに見えてけっこう大胆で、世間的な常識はあんまり関係なかった。娘の遊子(一生遊んで暮らせるように、とわたしの願望を込めてつけた名まえです)に言わせると、「わたしが知っている人のなかでいちばんプライドが高くて、パンクな人」。遊子は、30歳までに世界一周したいと言って、15、16か国をひとりでまわってきましたが、あの大胆さは、万里さんの遺伝子だろうと思います。いま、ちいさな箱に万里さんの骨を入れて持っています。いずれ、沖縄と、万里さんがいつか行きたいと言っていたアフリカに撒こうと思っています。
万里さんは写真がきらいだったので、遺影はおいが描いた絵にしました。これが評判良くて。葬儀のときに喪主として、「万里さんは、最後まできれいで、ちょっと不思議な人でした」と挨拶すると、これも評判が良くて。万里さんは2つ年下だけど、ずっと〈さん〉付け。ふつうは「妻が」って言うのかな。
遺影に使った万里さんの絵が好評を博して依頼者続出(F3号、アクリル画)
万里さんの仏壇は、扉に十字架の入ったキリスト祭壇です。仲のいい友人が、「魂は抜いとるけん」ってなぜか新品をくれました(笑)。奥に遺影を入れたら、ちょうどはまった。手前に灰皿を置いて、毎日、万里さんが吸っていたタバコを吸いながら、コーヒーと線香をあげています。花も飾っていますよ。やっぱり枯れるといやだな、替えなくちゃと思いますね。
(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)