Sotto

Vol.80

光・空気・水

葉祥明さん

自分が自分である理由

命の時間

ぼくのアトリエは、絵描きのアトリエというより書庫。数千、数万と本があるから、絵を描くスペースはない(笑)。絵で食べてはいるけど、ぼくは、思索する人。考えるための時間を確保したくて、時間に束縛されない職業を選んだ。たとえば、ファーブルが、朝と夕方ゆっくり時間をかけて庭を散歩して、そのあいだに昆虫の研究をしたように、なにかを観察したり書き残したりするには、そういう孤独な空間が必要なの。それを現代の東京でどう確保できるか、ということをずっと考えて、いまのライフスタイルになった。死ぬときに、〈ああ、生きていなかった〉と思いたくない。〈自分の人生〉を送りたい。人生の時間とは命の時間だから。

でも、あれよあれよと75歳を過ぎてしまった。どうやら引退はないようだし、一生、絵を描くんだろうね。理想は、自宅の小さな庭を眺めながらこと切れる。映画の『ゴッドファーザー』みたいに――。自分の最期の姿だけは、イメージしているの。

 

思索すること、自分の人生を生きること(1996年、葉祥明美術館にて)

photo by 青木由有子(『幸せへの道案内人 葉祥明の世界』より)

 

目的と計画

小学校5年生のある日、〈テスト〉という名のプリントが配られた。問題が解けた人は校庭で遊んでいい、と先生。1クラス55人くらい。早い子からどんどん出ていって、残り数分で15人くらいになったときに、ぼくもやっと最後まで解いて校庭に行こうとしたら、先生が、「ヨウくん、みんなを呼んでらっしゃい」。まだ解き終わっていない子もいるのに。そのとき、「この世はテストに答えられなければ居残りだぞ。これは大変な人生が待っているぞ」と悟った。中学は3年あるらしい。高校も3年。大学は4年もある。テストのあるこれからの10年をどう生きるか。10歳のぼくは考えた。それで、勉学に関しては真ん中あたりをウロウロしていればOK。自分がほんとうにやりたいことは、だれにも言わずに胸に秘める、と決めた。

 

これは大変な人生が待っているぞ。10歳のぼくは考えた――(1955年)

 

大学が終わったら自分らしく自由に生きると計画していたのに、4年生になると、「神戸製鋼」とか「日商岩井」とか、「伊藤忠」とか書かれた紙が貼り出された。ぼくの実家はレストランだから、まわりに会社員がいない。大学を出たらその人の得意技で生きていくのだと思っていたら、会社というものがあるという。それで友だちに、「これ何年? 4年くらい?」と聞くと、25年くらいはかかると。10年我慢したのに、まだあと25年もあるのか! これはいかん! そこで再び考えた。自分の生き方をキープするには、食わなきゃいけない。絵が好きで得意だったから、ひと月にどれくらい描けば、必要なだけ稼いで自由な時間を確保できるか。計算して、実行した。

ところが、そのうちにみんな就職して結婚する。30歳くらいまでには子どもも生まれたりしてさ。人生3回目のショックだ(笑)。ほかの人の人生と自分の人生がぜんぜん違う。ようやく30歳で、大学で知り合った子といっしょに暮らしはじめて、33歳で家を建てた。でもそれで完成じゃない。だってぼくの人生の目的は、思索することだから。

 

わけがわからない存在

ぼくの絵の草原や海や空は世界を表していて、家や木や自転車に人間存在を託している。「君たちは、広い世界にぽつんと小さく存在するけど、寂しいわけじゃない。世界から包まれているんだよ、安らぐでしょう?」と伝えているのです。いろいろあるのが豊かなのではなくて、シンプルであればあるほど、実は豊かさは増す。人間は世界の中で慎ましくいることが大事なんだよ。そんなふうに、絵にはぼくの思想が表われているの。

 

『高原の夏』葉祥明

 

前人未到のことをやるような人たちは、ルールのないところに入っていくもので、そういう歴史上の偉人たちが、ぼくのメンターであり、魂の兄弟。だからぼくは、人類の文化の巨大な蓄積から突き抜けようと、ぼくなりに密かにやってきた。でも、生きているうちに騒がれるのは好きじゃないの(笑)。50年後、100年後に、ひょいっと顔を出す。知る人ぞ知る。そういうのがいい。

美術はアノニマス。作者の名前が出てくるのは15世紀のルネサンスからで、それまでは無名だよね。知られる必要がない、知られたくない――。あるのか、ないのかもわからない。ぼくはそういうのが好き。自分が自分であればいいという絶対的自由。そして自由とは、自分が自分である理由。ぼくは、ほかの人には、わけがわからない存在でありたいんだな。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

 

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