第15夜
夢と現のグラデーション
どこかの公園の大きな池。わたしは池の真ん中で、ボートの底に寝そべり、空を見上げている。ボートの底に穴があいているのか、だんだんと水が入ってきて、そのうちに顔だけが水面に出ている状態になる。が、とくに困った様子もなく、助けを求めるわけでもなく、わたしは池に浮かんだまま、周りのボートに乗っている人たちの会話や、池のほとりに座っている人たちの会話を聞いている。のどかな春の午後。
「なんと夢だったのか」
――『枕中記』黄粱一炊の夢
とある瞬間に、ああ、いまわたしは夢を見ているんだな、と勘づくことがある。いずれ寝てしまうか、目が覚めてしまうかして、たいていの夢はそのまま立ち消えるのだが、ごくまれに、夢の名残が目を開けてもなお、映像としてとどまっていることがある。そんなときには、夢の要点を手早く紙に書く。あとで読み返すと、これがなかなかおもしろい。頭が冴えているときには、けっして考えつかないような展開や言葉の羅列は、しかし、たしかにわたしが書き記したものだ。
正夢とか、逆夢とか。ナイトメアとか、スウィートドリームとか。夢を奪われるとか、夢のマイホームとか。夢と現(うつつ)はどこかでつながっていると、古今東西のだれもが信じていたし、いまでも信じている。ただ、その仕組みというか、夢と現がどこでどうつながっているのか、はっきりしたことはだれも知らない。
しかたがないから、夢と現のあいまいな境界線、いや、線というほど細くもない、国境地帯ほどの幅を、右に寄ったり左に寄ったり。けれど、どちらかの境界に近づいたとたんに、その輪郭はぼんやりと遠ざかって、限りないグラデーションの中へ立ち消えてゆく――。はたして、そうだ。わたしが見ているこの世界は、こんなふうにして、いくばくかの夢と、いくばくかの現が混ざり合って出きているにちがいない。
夢と現のあいだをふらふらと歩き続けているわたしがひとり。ああ、夢か。いや、夢ではないのか?
🖊 平野有希