Sotto

Vol.111

画家

真下玉女さん

目の前にいる人をだいじに

なんもわからんくせに

父は日本画、母は染織を専門にしていたので、わたしも小さいころから絵を描く環境にありました。でも、絵を描くことが苦しくて、悔しい時期が長かったです。幼稚園に通いはじめて、それまでは好きなように、いつまでも描いていられたのに、急に「時間制限」ができた。時間内に描きあがらなくて、ただの幾何学的な絵になってしまって、まわりから「なにこれー」って。めっちゃ屈辱でした。先生も気をつかって、「きれいねえ」と言ってくれるのですが、完成していないのだから、きれいなはずもなく。「なんもわからんくせに!」と、思っていました(笑)。

でも、そのときはじめて、家族ではない誰かに絵を見られるという経験をして、これが世間というものだと知ったのです。自分に対して何の感情もない人が、完成していない絵を見て、「なんだこれ?」と言う。それはすごくリアルな反応で、だからこそすごくわたしの心に刺さったのだと思います。

 

猫と同居人のいるアトリエにて(2024年、大阪)

 

ちゃんと描けたか

絵のいいところは、わたしが体験したことを、絵を見た人も体験できること。わたしの自画像を見て、「これは自分自身だ」と言う人がたくさんいます。わたしがわたしを見て創り出したのと同じように、この絵を見た人も自分自身を見ているのだと思います。絵と対峙したときに、作者をとっぱらった体験ができるところ。そこに絵の価値があると思います。

ヘルマン・ヘッセの『デミアン』に、光と闇、ふたつの顔をもつ〈アプラクサス〉という神が登場するのですが、わたしは、このアプラクサスの視点で、自分の仕事を見るようにしています。わたしたちの世界は、明るい世界のすぐとなりに暗い世界がある。いまなお戦争があって、不景気や天災や、いろいろなことを止める術を見つけられないまま、それでも世界はまわっている。そこに、たとえば、今日の晩ごはんは何にしようか、と考えている自分のことも、わたしは自分の絵に、ぜんぶ込めたいのです。明日への希望も、暗澹たる気持ちも、どちらも背負えているか――。

 

「自画像」(オイルパステル、2024年)

 

画家は完ぺきな美や正しさを創りうる、と考える人がいるけれど、わたしはそんなことはありえないと思っています。こうなっている〈はず〉だと、そのとおりに描いたら、だいたいきれいな絵は描ける。でも、そのきれいなもののために、見落としたものや捨てたものがある。それを捨てずにちゃんと描けたか、ちゃんと残せたか、そこを見たいのです。

 

 

知っていようと努力すること

いま人物画のモデルをお願いしているひとは、わたしと同い年で、もう8年ほどの付き合いになります。おたがいの話をいろいろしてきました。コロナ禍の最中に、ひさしぶりに会って、ふたりで近所の箕面公園にある滝道を歩いたときに、「わたしたちは川の底に沈んでいる石みたいだね」と言いました。川底の石の上を水が流れると、波紋が生まれる。石は見えないけれど、でも、波紋を通して、そこに石があることがわかる。わたしたちの関係もそれとおなじような感覚、距離感。同じことを思うことはできないけれど、そこに彼女がいることが救いとなって、わたしは勇気づけられる。“人と生きる”というのは、こういうことだと気がついたのです。

わたしの家には同居人がいます。大学時代からの友人です。食事のときくらいしか顔を合わせない日もあるけれど、夜ごはんを食べたあとに30分くらい、いっしょに散歩します。テレビがついているとしゃべらなくても、横で体を動かしていたらしゃべるかなって。あたりさわりのないところに落ち着いてしまいがちだけれど、ひとつ踏み込んで、自分の考えを話すことができる相手がいるというのは、やっぱりいいなと思います。

 

クロッキー集から「変な内装の店」

 

わたしが人物画を描くのは、自分の思い通りにならない要素があるから。他人という存在をひとつ設定するだけで、自分がいかに傲慢かを知ることができます。見えない誰か、ではなく、目の前にいる人をだいじにすること。そこにその人がいることを、ちゃんと知ること、知っていようと努力すること。みんながそうすれば、世の中のいろんなことが、もうちょっとよくなるんじゃないかな。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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