Sotto

Vol.110

南部盛岡チャグチャグ馬コ同好会会長

菊地和夫さん

人も馬もいたわりたい。

馬のいる生活

 

うちは代々の農家で、わたしは6代目です。農業高校を卒業してすぐに家の仕事を始めました。子どものときに両親といっしょに馬車に乗って畑まで行ったという、かすかな記憶があります。あのころはまだ馬がいないと農作業できない時代でした。そのうち機械化が進んで、家の中から馬がいなくなったんだけど、無性に馬に乗って散歩したくなってね。就農して2、3年後に自分のお金で馬を買いました。それ以来50年、ずっと馬のいる生活です。

動物はなんでも好き。犬もたくさん飼ったし、鳩やカラス、燕も飼ったことがある。動物の中でも馬は人の気持ちを察してくれるような気がします。大きな瞳にこっちの顔が映ってさ、かわいいよね。

わたし自身がチャグチャグ馬コに出るようになったのは、20代のころです。チャグチャグ馬コって、自分の馬がいないと出られないのです。それで、装束は持っているけれど、馬を持っていないという人から、馬を貸してほしいと頼まれた。それまでは、そういう行事があることを知っていたくらいで、自分では見たこともなかったけれど、馬を貸しているうちに、だんだんと自分の装束がほしくなった(笑)。しばらくして、立派な家紋を入れてつくってもらって、馬も装束も“オール菊地”で参加するようになりました。

 

家紋入りの「鼻かくし」と手編みの装束。「まんじゅう」とよばれる飾りや大小700個ほどの鈴が縫いつけられている。

 

家族と馬をつなぐ

結婚したのは21歳のときです。25、6歳のころに2番目の子が生まれましたが、すぐに先天性の異常がわかって、ずっと入退院を繰り返してばかりいました。わたしは仕事が忙しくて、子どものことは女房にまかせっきり。仕事と子どもとどっちが大事なんだ! って病院の先生によく怒られた。手術もしたけれど3歳で亡くなりました。この子はただただ苦しむためだけに生まれてきたんじゃないか。なんにも楽しい思いをせずにあの世にいってしまった――。当時はそんな罪悪感ばかりがありました。いまでも想いますよ。

その子を入れて、子どもは4人。若いうちに子どもができたから、50歳くらいになったら楽ができると思っていたのに、最後に結婚した長男とこの孫はまだ4つと2つ。こっちは70歳過ぎて、抱っこもおんぶもたいへんだよ(笑)。うちの子たちは小さいときから馬と接しているから、馬を怖がることもない。わが家ではチャグチャグ馬コに出るのは当然、という感じかな。途中とぎれた時期もあったけれど、わたしの父が子どものころから数えて、菊地家の出馬回数は今年で57回目になります。馬をいたわり、馬の無病息災を願う。この馬事文化を絶やしてはいけない、なんとしても守りたいと思っています。

 

チャグチャグ馬コに自分の馬と装束で出るようになったころ(1980年ころ、滝沢村)

 

馬に接するように

チャグチャグ馬コに出る馬は農耕馬だから、自分で持っている人はなかなかいません。まして馬小屋を維持することや、頭数を増やすことはなおさら難しい。でもなかには、いつかチャグチャグ馬コに出したいと思いながら装束をつくっている人もいるから、はやく装束を完成させてあげて、馬も手配して、参加させてあげたいですね。

これまでに2度、フランスでチャグチャグ馬コを披露する機会がありました。一昨年は、パリの凱旋門から2キロほどを練り歩きましたが、みなさんの反応がとても大きかった。馬の胸のところに下げる「鳴輪」は、それぞれの家ごとに音が違って、それが共鳴しあいます。この音がチャグチャグ馬コの特徴です。シャンゼリゼの裏通りで、馬の着付けなどの準備をしていると、通りかかった人が寄ってきて、すばらしい、すばらしい、と感激していました。

フランスでは、在来種であるペルシュルロン馬を守るために、農業機械を使わず、あえて馬を使う人がいたり、馬を残すために、会社勤めの人でも自分の馬を持っていることがあります。それは一種のステータスでもあるけれど、ヨーロッパは馬の歴史が長いから、やっぱり文化が違います。

 

馬の胸のところに下げる真鍮製の「鳴輪」がチャグチャグ馬コ独特の音の風景を生み出す。

 

人に接するように馬にも接するけれど、人間のほうが難しいよね。同好会の仲間も、馬を想う気持ちはみんな同じはずだけれど、一人ひとりの想いが強すぎて、なかなかウマがあわない(笑)。大事なのは、自分が嫌だと思うことを他人にしないということ。人を想うのも、馬を想うのも、いたわりの気持ちが大切だと思います。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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