Sotto

Vol.92

大村はま記念国語教育の会 事務局長

苅谷夏子さん

言葉があなたと共にありますように

9月3日

9月3日は、わたしが大村はまの授業をはじめて受けた日です。人生のなかでエポックがあるとしたら、それは53年前のあの日だろうと思います。大村はまに出会うまでは、教科のなかで国語がいちばん嫌いだった。ここの行間にこんな感情が滲み出ているので……、とか言われると、そんなのどこに書いてあるのだろう? それを感じられないわたしはダメなのだろうな、と。だからよけいに距離をとってしまっていました。

その日の授業が残り30分になるころ、大村は、「2学期の最初の日には、夏休み中のこのことを話そうと思って楽しみにしていました」と、初めてのヨーロッパ研究旅行の話をはじめました。街の様子、光やざわめき、人々の動きを、大村はいきいきと、じつにみごとに話し、また、とらえたショットが巧みで、構成も知的で、気がつくと、わたしはすっかり聞き惚れていたのです。いまここにいるわたしたちのためだけに、この人は〈本気になって言葉を紡いで〉いる。その迫力に呑まれて、30分が一気に過ぎていきました。

生意気な13歳の浅い言語観をみごとに砕いた大人の力がまぶしくて、言葉があれだけの迫力と魅力を持ちうると知った、ほんとうに驚くような一日。あの9月3日をもって、わたしは大村はまの生徒になりました。

 

教室は全力で子どもたちと向き合う場所(1970年代、大田区立石川台中学校)

 

大村はま

大村は98歳で亡くなるまで、時間もお金も、すべてのエネルギーを国語教育に注ぎました。とても孤独だったと思います。54年間勤めて、ただの一度も職場で送別会をしてもらったことがないのですよ(笑)。日本の社会で突出した存在というのは、孤独になりがちなのでしょう。嘘や本心からでない言葉を言うことができなくて、集団のなかでは厄介な人だったかもしれません。でも一方で、うんと尊敬され、愛された。

プロフェッショナリズムを体現したような大村を師範に、わたしは言葉の体系をつくりなおされたという実感があります。いま3歳の孫を見ていると、不思議としか言いようがないプロセスで、いつのまにか、母国語を獲得していきます。でもそれは、指南役がいないまま、ぬるっと身につけて自分のものにしてしまっているのです。わたしは大村の生徒になって、言葉と自分の関係性をまったく新たにつくったと思います。

学校での講演で大村が子どもたちに声をかけると、子どもたちの〈言葉が目を覚まして〉いくのがわかります。大村の言葉は、深いところから出てくる。「わたしはいま、あなたにこの言葉を手渡したくて、心をこめて言っています」という思いが声に漂う。だから、だれも聞き捨てにできないのです。

 

情熱は衰えることなく、全国各地へ講演に出かけた(2003年、横浜)

 

言葉の遺伝子

大村の本を書くために、かつての生徒たちに会って話を聞いてまわりました。大村のことをどんなふうに自分のなかに位置づけているのか知りたかったのです。でも、大村の教えとか授業の思い出をたずねても、みなキョトンとして、「あんまりおぼえていない」と言う。でも、はたと気がつきました。その人たちの〈話している言葉が大村流〉なのです。けっして予定調和的な流れで答えず、これがほんとうに自分の言いたいことなのか、間をおいて確認したり、口から言葉が出たあとにも、なにか大事なものが抜け落ちていないか、別の角度の言葉がないか考えたり、要するに、とてもよくできた話し手だった。そういう言葉とのつきあいかたこそが、大村が育てたものであり、その人たちのなかには大村の遺伝子が入っていたのです。

 

大村はいつも「どうか、言葉が一人ひとりを支えますように」と祈りながら仕事をしていました。そういう姿勢で言葉を手渡していた。言葉があなたと共にありますように――。その祈りと手渡された遺伝子を大事に生きて、引き継いでいく。大村に習った多くの生徒のうちのひとりとして、一生懸命に言葉を使って話をしたり伝えたりすること。それが、わたしにとって大村を偲ぶことだと思っています。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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