Sotto

Vol.89

信夫山スタジオ

橘内裕人さん

自分の人生の主人公になりなさい。

憧れと想像と撮影

福島県福島市で生まれました。子どもの頃から映画が好きで、映画の世界に憧れていました。小学生の頃は面白いことが大事だったので、なんでも試してみたくて、廃墟の団地の窓に石をぶつけて一枚ずつ割ってみたり、悪さばかりしていました。でも、物事の善悪がわかってくると、やらなくなるんですけどね。でも毎日が面白くなくなってしまって。それからは頭のなかで想像して楽しむようになりました。いまでも想像や妄想が好きですね。隣に座っている男女はどんな関係で、なにを話しているのか。着物を着て歩いている人は一体どんな人なのか。そんなことを想像して日々楽しんでいます。大学進学の時に東京に来て、卒業後は映画業界で働きたいと思い、日本映画学校に入学しました。映画はどんなに監督が優秀でも、脚本が面白くなければいい作品は作れない。と思って、脚本コースを専攻しました。脚本をしながら映画を撮影する日々を過ごしました。

 

想像の世界にひたっていた子ども時代(1994年ころ、福島)

 

対話を重ねる、理解を得る

卒業してしばらくして、日本映画学校の先生であり映画プロデューサーの武重邦夫先生の発案で、日本映画学校の卒業生を集めて、福島県を舞台にした『物置のピアノ』という作品を撮ることになりました。武重先生はシネマネストJAPANを設立後、主にドキュメンタリー映画を撮られていたので、劇映画を手掛けるのは初めてでした。まずは原作者の故郷である桑折町に相談にいきました。

久しぶりに帰った故郷は大きく変わっていました。家にはブルーシートがかけられたままで、原発事故があった浪江町から避難してきた方もいました。まだ震災から1年しか経っていないときに、いきなり映画の話をしても賛同を得るのは難しかったですね。僕たちが映画の話をすると、こんな時期に映画なんて! と、賛同を得られませんでした。それでも町長さんと話を重ね、理解していただき、ついに撮影することができました。撮影が始まるとテレビ局の取材が来て、それから市民の方々からも応援してもらいながら、なんとか無事に公開することができました。映画が公開されて安堵していたら、武重先生が急に亡くなったんです。これからまた一緒に作品を制作していこうと言っていたのに……、残念です。

 

プロデューサーとして胸を張ってロンドンへ(2015年2月27日付、福島民報)

 

恩師・武重邦男さん(右端)とともに(2014年、上映会の日に)

 

おかしいことは、おかしい

それからはいくつかの映画製作会社で働きました。映画業界は多種多様な人がいて、やりたいことができるのはほんのひとにぎりです。実際の映画の現場は、憧れとはまったく違っていました。現場には寝る間もなく働きつづけ、人間扱いされないスタッフが大勢います。映画業界は先輩が後輩を育てる文化はないので、ひたすら現場をみて学ぶだけ。しかし、ほとんどが心や身体がダメになるまで働いて辞めていくのです。撮影中の事故もたくさんあります。寝不足のまま車で事故を起こして辞めた知人もいます。映画製作の裏では若いエネルギーが失われています。予算が少ないから、人手が足りないからと言いながら、結局は若者のやりがいを搾取する。いちばん大切にしなくてはいけない若いエネルギーを踏み台にしてまで、映画をつくることに価値があるのだろうか――。

僕にとって武重先生は映画業界で唯一の信頼できる人でした。映画業界にいなくてもいいし、どんな仕事をしていてもいいから、ちゃんと自分の人生の主人公になりなさい、といつも言ってくれました。それで僕は自分の心と身体の健康のために映画業界を辞めて、福島に帰ることにしたんです。好きな仲間と好きな時に好きな場所で映画を撮る。僕も主人公になれるようにがんばります。

 

(聞き手=加納沙樹)

 

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