Sotto

Vol.88

清掃・人権交流会会長

押田五郎さん

それはぜんぜん当たり前じゃない。

自分のことは自分でする

戦後、東京で生まれて、下町で育ちました。両親は商売を何度か変えましたが、最後は「山水楼(さんすいろう)」という中華そば屋を営んでいました。残念ながら、道路の拡張工事の立ち退きで、わたしが20歳のときに店をたたむことになったのですが、とても働き者の両親でした。

商売人を親にもつ子どもは、生活の中で、その仕事を手伝うことが当たり前でした。小さいうちは箸を箸袋に入れたり、紙ナプキンを三角にたたんだり。中学生になると調理場にも入って、カツ丼や親子丼くらいならつくり、出前もしました。家に風呂がないので、店の前にあった銭湯に通っていました。店をしめてからですから、必ず終い湯でした。もう掃除がはじまっていて、番台さんが浴槽に桶を投げ入れてくる。その桶のすき間に顔を出してね(笑)。自分のことは自分でする。ちゃんと家の手伝いもする。いま思うと、本当にありがたいことです。

 

5歳のころ、祭りの日に(1955年、杉並)

 

高校卒業は1969年。全共闘運動がいちばん盛んな時代です。わたしもその時代に影響を受け、自分の生き方を考えるようになりました。その中で差別や人権問題など、いまに至るまでずっと取り組んできました。当時、父には「危なっかしいからやめろ」と言われ、口論になることもありましたが、母は少し理解してくれていたようです。その母は昨年11月に99歳で亡くなりました。わたしにはあまり多くを語りませんでしたが、後半生は平和問題にも積極的に取り組んでいたようです。

 

一貫して、信念を持って

わたしが東京都清掃局の仕事に入ったのはちょうど50年前の1972年。きっかけは、すでに清掃局で働き、かつ、部落解放運動の練馬支部で活動していた逸見俊介さんから誘いを受けたことでした。当時、わたしも差別や人権問題に取り組んでいて、高いところからではなく、現実の地面の生活を通して課題に向き合うことが大事だと思っていましたから、よろこんで清掃の仕事をはじめたのです。

逸見さんとわたしは同年配でしたが、とても落ち着いた人で、ブレない人でした。1995年に職場で部落差別事件が起こったとき、差別はあってはならないこと、差別をなくそうと、逸見さんを中心として、多くの仲間が努力した結果、98年には清掃・人権交流会が設立されました。わたしをインドに誘ってくれたのも逸見さんでした。「インド人権スタディツアー」です。インドのカースト差別は日本の部落差別と共通点も多いのです。わたしも参加して、「ダリット」とよばれる人たちに会いに行きました。清掃は彼らの重要な仕事であり、いまでも厳しい差別を受けています。インドでの交流を通して、もう一度、自分たちの原点を確かめ、考える機会を得ることができました。

 

中央に押田さんと逸見さん。インド・チェンナイのアンベッカー記念堂にて(2006年)

 

彼も人間だから、悩みもいっぱいあったはずです。人生、山あり谷ありですから。でも、一貫して、信念を持ってやる。彼の、そんな姿を見てきたから、わたし自身も初心を忘れることなく、ブレずにいることができたのだと思います。逸見さんはがんを患い、2009年に亡くなりましたが、彼の残してくれたものはしっかり受け継がれています。

 

声を出さないとダメだよ

一昔前の清掃の仕事といえば、「とにかく早く終わらせる」こと。早出出勤して、勤務時間前には作業開始して、昼前には全部終わらせる。それが当たり前でした。清掃作業には危険がともないます。新しい機械がどんどん導入されていた時代で、ごみ収集車の事故、回収時のケガが多発していました。急いで作業をすれば、その分だけ危険が増える。実際に清掃作業中の事故で亡くなった人や、大怪我をする人もいました。そんな状況を見て、「変えないとダメだ!」と、若手の職員から声が上がりはじめたのです。ところが、わたしたち青年部が声を上げると、ベテラン勢から抑えられるわけです。「お前ら、10年早い」って。わたしも何度も「おい、押田。屋上に来い!」と呼び出されました(笑)。それでもあきらめずに声を上げ続けていると、しだいに声が届くようになり、少しずつ清掃を安全な仕事に変えていくことができました。

 

30代前半、集会ではマイクを持って発言することも(1980年ころ、東京)

 

いまの若い世代には、「ちゃんと声を出さないとダメだよ」と言い続けています。でも年々、青年部の声は静かになっていくような感じがしますね。いま、東京23区内の清掃に入る若い子たちは、比較的安全な現場で働き、少しはゆとりを持って仕事ができている。もしかしたら、その環境が当たり前だと感じているのかもしれないけれど、でも、それはぜんぜん当たり前じゃない。いまの職場の環境があるのは、半世紀にわたる長い闘いの中で、多くの仲間がやっとの思いで勝ち取ってきた、その努力のおかげなのです。そのことは決して忘れてはいけない。もういちど、清掃に関わるすべての人に、大事なことを、しっかり伝えていきたいと思っています。

 

スラムの子どもたちと(2012年、インド・チェンナイ)

 

(聞き手=岡部悟志、撮影=平野有希)

Share

So storyでは
読者のみなさまのご意見、ご感想をお待ちしております。