Sotto

Vol.76

大橋石材店

大橋理宏さん

人を大切にする、それがいちばん大事。

技術と信頼と

2年半前に父を亡くしました。珪肺を患っていて、6年前に一度倒れてからは発作と治療を繰り返していました。医師からは薬が効くのも4回までが限界だからと言われていたのに、父は12回ももったんです。最期まで会話もしっかりできて、気持ちも強かったですね。葬儀には1000人もの方が列をなして集まってくれて、にぎやかなお別れになりました。

父は石の産地として有名な茨城県の真壁市で8人兄弟の三男として生まれました。祖父は採石現場で働いていたので、長男は石を加工できる人になれ、次男は採石場で働く人になれ、三男は石彫ができる人になれ、と言われて育ったそうです。中学を卒業して、自分の意志とは関係なく就職させられてしまったものだから、16歳のときに家を飛び出してしまった。問屋さんの荷車に乗せてもらって横須賀に出て、住み込みの丁稚奉公です。それからずっと職人として腕を磨いて、26歳で独立しました。修行中におぼえた技術と、取引先から信頼される人間性で、いまの会社を築くことができたのだと思います。

 

大橋家の男たち。父と兄と(1971年ころ、横須賀)

 

まず職人になれ

わたしの兄は歯科大に通っていたので、実家の石材店を継ぐのは自分なのだろうなと思っていました。でも、旅行が好きだったので、大学を卒業してからはリゾート関連会社の営業をしていました。ちょうどバブルがはじける前後のことで、バブルがはじけてからは、自分が売っていた商品はまさに紙切れ同様になってしまいました。そんなこともあって、こんどはちゃんと形があるものを扱いたいと思うようになりました。

実家に帰ったときに、石屋の営業でもやろうか、営業の経験あるからさ。と、なんとなくの気持ちで父に言ったら、ふざけるな、と一喝。石材の仕事をやるなら、まず職人なれと言われて、25歳でこの道に入りました。現場で働きながら、営業は自分で身につけるというやり方で、イチから自分で調べて勉強して、少しずつお客さんとの関係ができて営業をおぼえていきました。会社を任せてもらえるようになったのはわたしが40歳のときでした。

父が現役を引退したといっても、家でじっとしているわけではなく、ふだんどおり毎朝6時には出社してくるんですよ(笑)。こっちもそれに合わせて起きないといけないし、おかげでいまではわたしもすっかり早起きの習慣が染みついてしまいました。

 

職人として、経営者として、父の姿を追いかける

 

自分のお客さん

会社を任されて2年目までは父の実績もあって、とくに問題なく経営ができていましたが、3年目になると急に業績が落ちはじめました。当たり前ですよね。父のお客さんばかりで、自分のお客さんがいないのですから。街でばったり友人に会っても、わたしが石屋であることすら忘れられていました。もっと自分でアピールしていかなくてはいけないと思うようになって、ブログや終活イベントを始めました。

何度も失敗しましたが、わたしなりのやり方で試行錯誤していくうちに、だんだんと「自分のお客さん」が見えるようになってきた。あるとき、お客さんから、大橋さんのセミナーは好きで通っているんだけど、実はもうお墓はほかで建ててしまっているのよ。でも、娘には大橋さんのところを紹介するわね。わたしも大橋さんのところで建てたんだって言ってあるから、って(笑)。ほかにも、街でばったり会った人から、教えてもらったやり方でやったら、お墓掃除が上手にできた、と報告を受けることもありました。うれしいですよ、うん。

父からは、おまえのやっていることは理解できない、とよく言われていました。でも、いまになって思えば、いつでもわたしのやっていることをよく見ていて、足りないところをしっかり指摘してくれる。経営者としても尊敬できる人でした。父から教えてもらったことですか。人を大切にする。それがやっぱりいちばん大事だと思います。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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