Sotto

Vol.82

音楽評論家

梅津時比古さん

ものの見方~抑圧された側の視点~

メルヘンチックな誤解

シューベルトの作品に『美しき水車小屋の娘』というタイトルで有名な歌曲があります。今年、わたしが出した本ではあえて、『水車屋の美しい娘』としました。というのも、従来のタイトルからはメルヘンチックな「美しい水車小屋」をイメージする人が多いのではないか、と思ったからです。従来の日本語訳では、「美しき」が、「水車小屋」にかかっているようにも、「娘」にかかっているようにも読めるのです。けれど、元のドイツ語のタイトルは、“Die schöne Müllerin”ですから、「美しき娘」であることは明らかです。

 

 

どうして、このことばにこだわったのか。ドイツでは〈水車屋〉での仕事は最下層の職種とみなされてきた歴史があります。しかし、論文や公的な資料の中では、その(ドイツ人にとっては口にするまでもない)事実は伏せられてきました。ほかにもいろいろと調べていくと、当時のドイツの〈裏の常識〉として、水車屋は〈劇場〉や〈飾り窓〉とおなじように、性の場の側面があったということがわかります。こういうことは日本ではほとんど知られていませんが、しかし、ドイツの歴史の事実です。ところが、その水車小屋が、日本語になると急にメルヘンチックなイメージに変わってしまう。それはおかしいでしょう。芸術を社会的な側面から照射すると、さまざまな背景が見えてきます。職業差別もそのひとつ。そういう意味で、シューベルトがどのようにして現実の社会に対応し、扱い、表現したのか。わたしが書きたかったのはそういう視点です。

 

寂しさ、悲しみ、影、決闘

ここ2年半ほどは執筆のために、「水車屋の美しい娘」の詩を書いたヴィルヘルム・ミュラーの日記を読んでいました。ミュラーの日記には、主人公の若者が水車屋の娘に惚れていながら、想いを伝えられなかったり、やきもちを焼いたりして葛藤する姿が描かれていて、その姿は現代人と変わりません。どこかで寂しさや悲しみを抱いている人、どこか影のある人、わたしが心惹かれるのはそういう人物です。

小学生のころは、たえず親が学校に呼び出されるほどの悪ガキでしたし、中学校では同級生と決闘(!)をしたことも。つねにどこか鬱屈としたものがあったのでしょう。大きいもの、多いもの、強いもの、エラそうなもの、体制、秩序、そういうのはいまでも嫌いです(笑)。それだからでしょうか、大学で講義をするときなどは、おとなしく話を聞いている子よりも、反抗しているような態度の子のほうが気になってしまうし、声をかけたくなる。自分の子どものころと重ね合わせてしまうのでしょう。

 

小学校2年生、バイオリンの発表会にて(1956年、鎌倉)

 

心の奥深くにあるものを

ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』は、冒頭で白痴が登場し、足蹴にされているのですが、最終的にすべてを見通していたのはその白痴であった――、という作品です。最下層にいる者は、ものごとがよく見えているというメッセージ。差別されたり、馬鹿にされたり、抑圧されている側から社会を見てみると、実にいろいろなことがわかってくるのです。だからこそ、わたしはそちら側の人間に想いを傾けることが多いのかもしれません。

事前に用意したセリフではなくて、相手に対して、心からほんとうのことを話そうと思うと、すらすらと上手には話せないものです。言葉を間違えたり、言いよどんだり、行きつ戻りつしながら、なんとか伝えようと話す。それが人間らしくていいなと思うのです。演奏も同じです。カチっと整えられた演奏ではなく、多少のミスがあっても自分の心の奥深くにあるものを、どうにかして表現しようとする演奏が好きです。そういうのが心に響くのです。

 

敬愛するピアニスト、エリザーベト・レオンスカヤと(2016年、東京)

 

時代も場所も関係なく、いちど会ってみたいと思う音楽家ですか? これまで会いたいと思った人には、ふしぎと会うことができたし、それに、作品を通して多くの人に会っているから、それで十分です。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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