Sotto

Vol.81

関西学院大学教授

中井直正さん

森本さんのように

ひとりの熱意がまわりを動かす

1982年、直径45メートルの電波望遠鏡を持つ「野辺山宇宙電波観測所」が完成しました。日本の観測天文学を世界トップレベルにまで押し上げる業績です。それを実現したのが森本雅樹さんでした。

森本さんは東京天文台(現・国立天文台)に在籍していた1960年代から野辺山宇宙電波観測所の建設を計画していました。ただ、当時の東京天文台の職員の多くは、「そんなものできるはずがない」と冷ややか。森本さんのアイデアは相手にされなかったようです。というのも、まず建設費だけで110億円という、当時の基礎科学の予算としては“超”高額だったこと、また、その頃の東京天文台は日本の時刻を決めることや星の位置を測定するなど、いわゆる「業務」が中心で、「研究」を行う機関としての性格が弱かったことが、理解を得るのに苦労した要因でした。

そこで森本さんは、天文台のなかだけでなく、外の大学にも協力してもらう体制を考え、「宇宙電波懇談会」という組織を立ち上げました。タテからヨコへ方向を変えたんですね。これがきっかけとなって、野辺山宇宙電波観測所の建設は実現に向かって動き出したのです。野辺山の観測所が完成すると、電波天文学における国際的な拠点として海外からも多くの研究者がやって来ました。それまでは、欧米の研究者が日本へ来ることなんてまったくありませんでしたから、森本さんの努力が日本の天体観測のレベルを一気に押し上げたことがわかります。

 

お酒が好きで、豪傑。だけど、気さく――在りし日の森本雅樹さん(写真中央、提供=野辺山宇宙電波観測所)

 

偉い先生と新しい発想

国立大学の定年が60歳の時代、多くの大学が定年を65歳まで上げようと議論していました。東京天文台も例外ではありませんでした。60歳だ、いや、65歳だ、と意見が割れているなかで、森本さんはひとり、「55歳に下げるべきだ!」と主張しました。年寄りはさっさと辞めて、若い人に職を与え、新しい発想を持たせるべきだ、と。そんなことを言ったらひんしゅくを買うに決まっています。でも、森本さんは一切気にせず、自分の意見をバシッと言う。結局、その意見は通りませんでしたが、そんな森本さんのことをみんな慕っていました。

わたしが大学院生のころ、森本さんはすでに教授という立場でしたが、いわゆる上下関係はありませんでした。森本さんたちの慣習だったのです。野辺山の観測所のなかでは教授でも大学院生でも、パートさんでも、みなが一体となって仕事をする気風で、森本さんに対しても、「先生」という言葉はなく、お互いに「さん」で呼び合っていました。「教授は偉い」という価値観から画期的な研究はできません。お酒が好きで、豪傑。だけど、気さく。そんなひとでした。

 

野辺山にはだれもが自由に意見を言える環境があった(1982年、大学院生のころ)

 

その後、わたしは国立天文台から筑波大学へ移り、自分の研究室を持つようになりました。研究室の運営方法は野辺山と同じです。そこには「先生」という言葉はありません。大学院生からは「中井さん」と呼ばれます。もし、「中井先生」なんて呼ぶのがいたら、「うちの研究室には先生という言葉はないんだよ」と。そういうふうにして、森本さんのものの考え方をわたしなりに受け継いでいます。

 

新しいことは「反対」から

いま、南極大陸の内陸部の高原地帯に直径12メートルの電波望遠鏡「南極テラヘルツ望遠鏡」の建設を計画しています。正直なところ、ひじょうに難しいです。最初に提案した際は、多くのひとが興味を持ってくれました。さまざまなデータから、南極のこの場所が天体観測には地球上でもっとも適した場所だと理解してもらえたからです。でも実際に建設するとなるとこれはたいへんなことで、多くの研究者は、「そんなものがつくれるものか!」と言うし、アンテナメーカーにも長いあいだ断られてきました。南極の、それも高地ですから、最低気温はマイナス80度にもなります。そんなところでアンテナの精度を保つのは容易ではない。そのうえ、地上から3,800メートルもの高さの雪の上に、120トンの望遠鏡を支える土台をつくるなんて――。みんなが「反対」するのは、論理的には正しい意見だと思います。でも、そこに電波望遠鏡を建設することができれば、画期的な研究ができ、日本の観測天文学もさらに発展するはずです。

 

南極の高地に観測基地をつくる、必ず。(2016年、南極大陸)

 

新しいこと、とくに大きなことをはじめるときには、必ず反対されます。それは研究の分野に限ったことではありません。どんな仕事でも同じです。でも、自分がやろうとしていることが、どうしても必要なことだと思うなら、どんなに周りに反対されようが、唾を吐かれようが、時間がかかっても実現するべきです。まさにそのことを森本さんから学びました。本人は自分から苦労を口に出すことはあまりありませんでしたが、仕事の場面でも、ふだんの生活の場面でも、森本さんと長いことずっといっしょにいて、知らず知らずのうちに学んでいたのでしょう。だから、わたしも困難にめげず、森本さんのようになんとか実現します。

 

(聞き手・撮影=平野有希)

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