Sotto

Vol.73

画家

塚本猪一郎さん

信頼の鎖でつなぎとめる

好きなことだけ

小さなころからベッドの下には大きな画用紙が100枚くらい、いつも置いてありました。絵を描いてもちぎっても、何に使ってもいいからと、母が用意してくれていたものです。小学生のとき、朝とお昼と帰りの時間にクラスみんなでクロッキーをやるという取り組みを1年間続けたことがあって、そこで、絵っておもしろいなと思ったんです。それからは、いつもスケッチブックを持ち歩いて、電車に乗ると目の前に座っている人を描いたりしていました。

高校1年のときには、絵描きになるって決めていました。3年生になると、明け方まで絵を描いて、昼まで寝て。お昼ころ学校に行って美術室で絵描いて。友だちと遊ぶのも好きだったから週に3、4日は友だちの家にいました。友だちのお母さんにお弁当をつくってもらって、「きょうの晩ごはん、なん?」なんて言いながら、学校に行っていた。そこのお父さんが麻雀大好きで、帰ると練習させてもらって。結構強かったんですよ(笑)。

とにかく、ぼくは好きなことしかしてない。自分がやりたくないことは、いっさいやっていません。まわりもおおらかだったし、母も何も言わず、ぜんぶ信頼してくれていた。信頼という鎖をつけられているからこそ、裏切れなかったな。

 

母と(3歳ころ、自宅の庭にて)

 

必死で信頼したら

母は、2000年に起きた西鉄バスジャック事件*の被害者です。もとは小学校教員でしたが、日本の学校教育のあり方に危機感を覚えて、48歳で退職して幼児教育の道へ。世の中がどんなに変わろうとも子どもたちが自分で判断して生きていけるようにと、自立教育をはじめました。それから17年経った年に、17歳の少年に殺された。運命的なものを感じます。

当時、中学生だった長女は不登校になりました。週末になるとおばあちゃんの家に行って、学校でのことを話すような、おばあちゃん子だったから。なんとか高校に入ったけれど、すぐにやめる、と。空中分解しそうな娘をつなぎとめるにはどうしたらいいか考えたときに、やっぱり、信頼の鎖でつなぐしかなかった。娘が復学したいと言えば、最短で卒業できる高校を日本中探したし、留学したいと言えば、1週間後には行けるよう手配した。そうやって娘は、自分で考えたことを実現させることで、少しずつ自信をつけていった。ぼくも苦しかったけれど、必死で信頼したら、戻ってきてくれました。

*西鉄バスジャック事件=2000年5月3日に発生した当時17歳の少年Aによるバス乗っ取り事件。乗客乗員22人のうち、3人が刃物で刺され1人が死亡、2人が重傷。ほかに2人が逃げる際にけがをした。日本のバスジャック事件において人質が死亡した初めての事件。

 

純粋に喜べる絵

8年かけて大学を卒業して、お金を貯めて行ったスペインでは、毎日絵を描いて、家の壁にかけていました。壁がいっぱいになると、新しい絵にかけ替えていくんだけど、それでもずっと残る絵がある。壁から外したくない絵。どんな絵かというと、作為のない絵なんだよね。

日本にいるときは、「賞をとらないかん」「画廊に持っていってアピールせないかん」とか、そういう野心があったけど、スペインで過ごした1年で、そんな気持ちだから作品が良くないんだと気づいた。自分が純粋にほんとうに喜べる絵を描こうと思うようになりました。高校時代の美術の先生が年賀状に、「純粋に個人的なものは、普遍的なものだ」と書いてくれたことがあった。言葉ではわかっていたけれど、体感としてわかったのはこのときです。

 

毎夜集まっては飲んで歌って。左端が塚本さん(1985年、マドリッド)

 

孫ができてからは特に、次世代にいまよりもっといい環境をつくってあげることが、ぼくらの生きる意味であり、仕事じゃないかなと思っています。たとえば、ぼくの絵から希望を感じたり、新しい考え方を発見できたりすることが、使命かなと。生きかたそのものを示すことも重要だよね。高校や大学時代の自分が聞いたら、びっくりするような話だけど(笑)。

 

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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