Sotto

Vol.61

デザイナー/プロデューサー

角香織さん

仕事も人づきあいも、対等に向き合うのがいい。

素足にワンピースで走れ

山口の下関の生まれですが、父親の仕事の都合で転勤が多かったの。10歳から数年間はオーストラリアのシドニーで暮らしました。ちょうど70年代の前半。現地の学校に通いました。学校には移民の子たちも多くて、わたしも英語がほとんどわからなかったけれど、不自由することはほとんどなかった。勝気な性格だったから、よくケンカもしてたな。学校が終わると制服のベレー帽とジャンパースカートと革靴を脱ぎすてて、素足にワンピースで走り回っていました。家の前にブッシュがあって、ワラビーが出てくるような環境でした。

中学の途中で日本に帰国して、千葉に住みました。日本の学校生活では男女意識みたいなものにカルチャーショックを受けてしまったり、部活の顧問の先生の考え方が理解できなかったり。いろんなことに違和感をおぼえていたとき、従妹から、高校は美術系の学校に進んでみたらどう、って。それがきっかけで、女子美の付属校に入学することにしました。

 

古い着物生地を使ったリメイクバッグ(1997年、パリで発表)

 

あふれる個性と新しい表現

女子美には、わたしみたいに変わった子がたくさんいて、救われました(笑)。家庭科の授業では食べ物でオブジェをつくっちゃうのよ。先生も味よりビジュアルで採点したりして。文化祭のときには、理科部の子がビーカーに紙粘土でつくった目玉を浮かべて展示して……。わけわかんないけど、毎日がほんとうに楽しかった。卒業前の最後の日に、みんなで学校に鰻の出前を頼んだこともありました。もちろん先生には秘密。50人前の出前をしてくれる鰻屋さんを友だちが見つけてきてね。正門では受け取れないから、地下にある理科室の天窓から50人分の重箱をバケツリレーにみたいにして教室に運んだの。いま思うと、鰻屋さんもよく注文を受けてくれたよね(笑)。

高校卒業後は短大でテキスタイルを学んで、ファッションの世界で働くようになりました。最初はアパレルの雑貨をデザインしていましたが、結婚して会社を辞めたあと、夫とふたりで中東やアジアを旅しました。1年半くらいかな。帰国してからはフリーランスのデザイナーとして働いて、それから自分のブランド「Kaos(カオス)」を立ち上げました。

オリジナルデザインのバッグをつくりたいなと考えていたときに、たまたまヴィンテージの着物に出会ってね。よし、着物を使って日本っぽい表現をするんじゃなくて、新しいスタイルのバッグをつくろう!って。サンプルをつくってみたのがはじまり。それをもって、パリ・コレの期間中に開催される新人クリエイターの登竜門的な展示会に出展したんです。それからは着物の生地の持つオーラにはまって、Kaosは「古い着物の生地を使ったバッグ」のブランドになっていきました。いろいろな昔の着物と出会い、時代ごとのトレンドも知ることができて、とてもおもしろかったな。97年から10年くらいパリで発表を続けましたが、いったんそれも一段落。いまはまた違う表現を探っていけたらいいなって思っているところです。

 

48歳ではじめたトライアスロンに夢中(2021年、九十九里トライアスロン2021)

 

道は自分で切り拓く

友だちと西麻布のお寿司屋さんにいったときに、そこの店主がトライアスロンをやってるんです、って。なんか刺激を受けちゃってね。わたしも50歳を前にして、なにか新しいことをやりたいと思っていたところだったから。それで13年前からトライアスロンをはじめました。この歳になってクロールの泳ぎ方を習うなんて、だよね(笑)。

人も動物も植物も、みんな生まれては死んでゆくでしょう。だから、生あるものにはあまり執着がないのかも。わたしの両親はもう亡くなってしまっているけど、手を伸ばせばそこにいるような気がしてね。だから、亡くなったときも、すごく悲しいっていう感情ではなかった。子どものころに海外で暮らしていたのもあるし、もともと勝気な性格だったってこともあるけれど、人と関わるときに、どっちが上で、どっちが下、とかは嫌い。女の子だからこうとか、男の子だからこうとかも嫌い。仕事も人づきあいも、対等に向き合うのがいいんです。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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