Sotto

Vol.59

社会のために働くひと

よぎさん

わたしの母はみんなのお母さん

あなたを信頼しているから

わたしは子どものころから正義感が強かったから、先生が間違ったことを言っていると思ったら、絶対認めない。それはおかしいでしょ、と。それで退学処分を受けそうになったこともありました(笑)。それでも、先生から母のレカに連絡がいくたびに、「わたしはあなたを信頼しているから」って、いつも支えてくれました。

1997年に留学生としてはじめて日本に来ました。大学卒業後は日系の大手IT企業やみずほ銀行で働くようになり、2001年から日本で暮らしています。それからは、行政の目が届かない、日々の暮らしの中の細かな問題と向き合うなかで、日本で暮らす外国人と日本人が共に暮らせる環境ができたらいいなと思って、いろんな取り組みをしてきました。2019年に「多文化共生の実現」を標榜して、江戸川区の区議選に立候補したら当選しちゃったんです(笑)。

2年間、区議会議員として働いたけれど、議員の立場ではできないこともたくさんありました。いま、次のステージは教育現場だと思っています。そしてその先も、社会をよりよくするために、自分のできることをやっていきたいですね。

 

日本で暮らす外国人と日本人が共生できる社会のために(2010年、盆踊り)

 

自分より誰かのために

母は日本に来る前はインドで裁縫を仕事にしていて、政府機関でも働いていました。でも、最終学歴は中学1年生。15歳で結婚したのです。母は自分みたいに学校に行けなかった子どもたち、とくに女の子たちが苦労する姿をたくさん見てきました。だから、子どもたちのために働きたいと思って、政府の機関を辞めて、学校にいけない女の子向けの裁縫学校をはじめました。それが評判を呼んで、ほかの地域でもやってほしいと、最終的には3か所まで増えました。あのころ、うちにはミシンが25台くらいありましたよ。

裁縫学校に通う女の子たちのなかには学費が払えない子もいました。我が家も経済的にはけっして裕福ではなかった。わたしは国立の学校に通っていたのですが、毎年自分の靴を一足買うので精一杯。ボロボロになるまで履き倒しました。そんな中でも、困っている子どもたちにはうちで食事をさせたり、お弁当を余分につくったりしてね。厳しい家計をやりくりしながら、まわりの人にも手を差し伸べる母の姿を見てわたしは育ちました。母はみんなにとってもほんとうのお母さんだったと思います。

 

高校生のころ。強い意志を感じさせる面差しはいまも残っている(1993年)

 

がんばらないのは恥ずかしい

ある日、わたしと母がふたりともインフルエンザで寝込んでしまって、息子の食事がつくれなくなったことがありました。10歳の息子に食事代を渡すと、毎食、ナンとバターチキンを買ってきた。インド人がふつうの食事としてナンを食べることはあまりありません。でも、それくらいしか売ってない。息子に可哀想なことをしてしまった。そのときにふと、こんなとき、まわりのインド人家庭はどうしているのかなと考えたのがきっかけで、母といっしょにインドの家庭料理店をはじめることにしたんです。

昼間は銀行での激務をこなして、帰ってきてから店で夜中まで働いて。4年間、必死に働き続けました。おかげで店は大繁盛。でもあまりに忙しすぎて、母が倒れてしまった……。これではダメだと思って、店の規模を小さくして、いまのところに移転しました。小さな店ですが、ここまで続けてこられて、たくさんの人に愛されるようなったのはまちがいなく母のおかげです。母がこんなにがんばっているのだから、わたしががんばらないのは恥ずかしいことです。

日本に帰化したいと言ったとき、銀行員を辞めて政治家になりたいと言ったとき、母はいつも背中を押してくれました。わたしに人情や家庭のあり方を教えてくれた人。母はわたしの原動力です。

 

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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