Vol.51

安田松慶堂

安田元慶さん

だれかの人生の深いところに関わる仕事

家族の情景~親から子へ、子から孫へ~

安田松慶堂は1792(寛政4)年の創業と伝わっています。近江(滋賀)の仏師だった初代が江戸幕府に呼ばれて芝の増上寺の修復に携わり、江戸で大仏師となりました。その後、明治維新を経て日本橋に店を構えました。昭和に入って戦争が激しくなると、私の父は祖母に背負われて熱海に疎開したそうです。残念ながら、当時の写真は戦争で焼けてしまって、ほとんど残っていません。戦争がおわってからしばらくは日本橋で商売を続けていましたが、昭和40年に現在の銀座にお店を移しました。来年で創業から230年になります。

と、こんなふうに、父から何度もわが家の歴史を聞いて、自分でもいろんな折にみなさんに話しているうちに、まるで自分がその場にいたかのように、そのときの情景が頭に浮かぶようになりました。不思議なものです。

わたしは姉がふたりの末っ子長男。子どものころは土曜日の夜になると仕事を終えた祖父と祖母がわが家に来て、みんなでいっしょに夕飯を食べて、そのまま泊まっていく。土曜日の夜は祖母の布団に潜り込んで寝ていた記憶があります。父は仕事でいつも帰りが遅かったし、姉たちとは歳が離れていたので、ふだんはひとりで遊ぶことが多かったかな。家族のなかでは、いつも自分だけが子ども扱いされているように感じていました。大人になってからもひとりで遊べるプラモデルづくりや靴磨きが好きなのは、その影響かもしれません(笑)。

 

祖母、祖父、母、父、姉に囲まれて(5歳、1980年)

 

当たり前のことなんてない

安田松慶堂に入る前、兵庫の仏壇店の「浜屋」さんに1年半だけお世話になりました。入社したのは2001年4月。その年の夏に明石の大蔵海岸で行われた花火大会で大きな事故がありました。JR朝霧駅から会場に向かう歩道橋で群衆雪崩が起きて、11人が亡くなりました。会社に入ってまだ1年目ですから、いつも通り配送助手としてお客さまのお宅へ仏壇を届けに伺うと、あの日の事故で亡くなった子どもの仏壇でした。

当時のわたしはまだ若かったし、自分に家庭があるわけではなくて、すぐに自分のことに置き換えるとか、深く考えるとか、そういうことはできなかった。でも、そのときのことが心に刺さっているんでしょうね、ずっとあとになっても想い返すんですよ。人生はなんて残酷なんだろうって。そして、自分の仕事は、こういう仕事なんだ。だれかの人生の深いところに関わる仕事をしているんだ。そのことを忘れてはいけないんだ、と。

みんななんとなく歳を重ねて、年齢とともに体力が衰え、そして亡くなっていく。それがふつうで、当たり前のことだと考えがちですが、人の寿命はある日突然、スイッチが押されたように終わってしまうこともある。当たり前のことなんてない、この仕事をしているとよくわかります。

 

まだ見ぬ世界を求める眼差し、二十歳のころ(1996年)

 

その人がいなくなったときに、想いが固まる

いまの仕事に就く前、銀座・和光の時計売り場に努めていたことがあります。大学を出たばかりの若い販売員に顧客がつくはずもなく……。それでも60代くらいの男性がひとり、なぜだかわたしのことをすごく気に入ってくれたんです。SEIKOのクレドールが大好きな方で、新作が出るたびにお店に来て購入してくださった。その後、わたしは和光を退職して家業を継ぐのですが、何年か前に渋谷の東急百貨店にある安田松慶堂の店舗にその男性が来てくれました。「社長によろしく」って。もう80代くらいなるのかな。直接お会いできませんでしたが、とてもうれしかった。

生きているうちは、家族や友人や大切な人たちを想う機会って、そんなにないのだと思います。それぞれに毎日いろいろな感情があって、ときには口を利かないこともあるかもしれない。感情というのは日替わりだし、存在の大きさやお互いの距離感は変わるものです。ところが、その人がいなくなったり、亡くなったりしてはじめて、その人への想いが固まる。いったん固まったら、遠ざかったり近づいたりはしないような気がしています。

何歳まで健康に生きられるかを想像して、そこから逆算すると、仕事もプライベートも、やりたいこと、やらなくてもいいことがはっきりしてきます。いつ死ぬかを自分で決めるわけにいかないけれど、準備だけはしっかりしておきたいと思っています。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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