Sotto

Vol.44

WEB集客アドバイザー

猪田進さん

人はいくつになっても変われる。

がむしゃらに上を目指し、突き進む

高校生のときに、近所に住んでいたお兄さんからサーフィンを教わりました。それからサーフィンが大好きになって、稲村ケ崎など湘南の海に通いました。サーフショップや海に行けば仲間がいて、いろんな人にも出会いました。高校を卒業してから2年くらいふらふらしていた時期もあったけれど、「このままではダメ人間になってしまう!」と、勉強して大学に入学。補欠合格でしたけどね(笑)。
24歳でトラック業界大手の会社に営業職で就職しました。相手は海千山千の社長さんたちですから、新人の若造が営業にいっても相手にならない。それでも、ずたぼろになりながら食らいついていきました。そういうがむしゃらさを気に入ってもらえたのか、だんだんとかわいがってもらえるようになって、ここでもいろんなことを教わりました。いまでも生きる糧になっています。会社での成績も上がって、営業が楽しくなってきたころ、もっと上を目指そうと思って、次は中古車情報誌の営業に転職。20代後半になると営業成績はつねに全国上位、どんどん役職もついて、給与も上がっていきました。

 

サーフィンにのめり込んだ日々(1998年ころ、稲村ケ崎)

 

思いあがっている自分に気づかされる

ひたすら仕事に没頭していたある日、突然、母の病気が発覚しました。がん。すでにステージⅣでした。ぼくはどうしても受け入れられなくて、家を出てひとり暮らしをはじめてしまった。目の前の現実から逃げたんです。
あるとき、母にひどい発作が起きました。本人がいちばん苦しかったはずなのに、「わたしがいつどうなっても、あなたは自分の道をちゃんと歩めるように、ちゃんと覚悟しておきなさい」と言った。母は昔から、自分がどんなに大変な状況にあっても、相手を気づかうことを忘れない人でした。子どものころから母にはたくさん教わってきたはずなのに、僕はそれを忘れてしまっていたんだろうなあ……。
それからしばらくして母は62歳で亡くなりました。あのとき、家を出て、逃げた自分が悔しくて情けなくて、いまでも後悔しています。
仕事では結果を出すことがすべてだと思って走ってきたけれど、思いあがっている自分に気づかされました。当時、ぼくが任されていた部署は毎年全国トップクラスの成績を出していました。でも、まわりにぼくを慕う人は誰もいなかった。そのころのぼくは、「俺ができるんだから、俺もやってるんだから、お前らもできるだろ、やれるだろ?」。いまじゃ考えられない、鬼軍曹ですよ。自分の部下にも成果を出してもらって、家族を幸せにしてあげてほしい。それだけを願っていたはずなのに、どこかで間違ってしまった。
会社を辞めるときに、色紙をもらうんですけど、周りからの評価はそこに顕著に出ていました。当時の仲間には本当に悪いことをしてしまったと、すごく反省しました。母が亡くなったことと合わさって、これまでの人生を振り返るきっかけになりました。

 

母と(1977年)

 

人と深く関わることで幸せに

34歳で心機一転。仕事もプライベートも、あらためて人として大切なことを探し求めるようになりました。新しい仕事に就いて、自分と向き合う時間を持つようにもなりました。忘れていたサーフィンも少し復活。あのころに出会った人たちはいまでも仲良くしてくれて、学生時代にはできなかった深い話もできるようになった。海に来るとやっぱり元気がでますね。
猪田家は先祖代々短命の家系なんです。だからぼくがもし長生きできたら、それは神さまからの贈り物だって思うようにしています。人生は何を成し遂げられるかではなく、誰となにをするかが大切。がむしゃらな時代もあったけど、いまは相手のためになることをいっしょに考えられるようになりました。
人はいくつになっても変われるんですよね。自分がいろんな人に助けてもらって、教えてもらったように、次はぼくが人と深く関わって、ぼくにできることをする。自分のまわりにいる人たちへの想いを大切にして、いっしょに成長できるような生き方をしていきたいです。

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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