Sotto

Vol.40

音楽家・はさまや酒造店12代当主

かの香織さん

互いに想い合い、わかち合えば、力になる

最初のピアノは紙の鍵盤

宮城県栗原市の造り酒屋の一人娘として生まれました。家にはいつも職人さんたちがいて、明け方になると蔵のほうから仕込み歌が聞こえてくる。家の近くにはタヌキやキツネがいてね。大きな木にロープをくくりつけたブランコをつくってもらって遊んでいました。

家での食事は野菜や魚を使ったシンプルな和食ばっかり。若い職人さんもいるからって、気の毒に思ったわたしは、ある日、みんなのためにトマトシチューをつくったんです。でも、口に合わなかったみたいであまり喜んでもらえなかった(笑)。友だちも農家の子が多かったから、だれかの家に遊びに行っては生みたての卵を食べさせてもらったり、見渡す限りのアケビ畑でお腹いっぱいになるまでアケビを採って食べたり。とにかく自然豊かな環境で育ちました。

ちょうど高度経済成長期で、世間では家庭に便利なものが増えていたのに、うちはずっと昔ながらの古い暮らしでね。両親にピアノが欲しいと話したら、ピアノは高くて買えないからって鍵盤が書かれた紙をもらいました。紙のピアノで一生懸命に練習……しました。本物のピアノにはじめて触れたのは小学校に上がってから。育った環境への反抗もあって、10代の頃は無機質なものに憧れて、音楽の世界を目指すようになりました。東京の音大に進学して、卒業して音楽の世界で働くようになって、見るものすべてが新しかった。

 

造り酒屋の一人娘として過ごした少女時代

 

かたじけない」の世界

音楽の仕事を始めてからは海外に行く機会が増えました。フランスでは音楽業界の人が集まるパーティにワインの醸造家さんが来ていることも多くて。彼らとワインについて語っていると、実家の酒蔵を思い出し、日本酒の文化も世界で誇れるすばらしいものだと気づかされました。

実家の酒蔵は1978年の宮城県沖地震で大きな被害を受けて、2年後に取り壊しになりました。取り壊す前、酒蔵にピアノを置いて演奏したのをよく覚えています。酒蔵がなくなり、両親は酒造免許を国に返納することも考えていましたが、酒蔵の一人娘として生まれたのだから、小さくてもいいからお酒造りをやってみよう。そう思って2003年に宮城県へ戻り、蔵元さんの元で一からお酒造りを学びました。

お酒造りは人と自然を想い、静寂を重んじる神聖なもの。誰かが作業の途中でやむを得ず持ち場を離れると、誰かがそっと人の作業を引き継いで済ませておく。そのときに恩着せがましい言葉は言わない。戻ってきた人は誰がやってくれたのかわからない。そこにあるのは「かたじけない」の精神。言葉では語りつくせない世界です。かけたものを丸くおぎない、円・縁をつくる美しい世界。日本酒文化の魅力を再確認しました。

 

かつての迫屋(はさまや)酒造店を支えた蔵人たち

 

自分たちだけがよかった。では良くない

子どものころに食住を共にした大好きな職人さんたちは、もう誰もいません。酒蔵がなくなった当時、わたしは17歳。彼らに何も伝えられませんでした。できることなら、心からの感謝の気持ちを伝えたかった。だからでしょうか、わたしはいつも誰に対しても、この人に会うのは最後かもしれない、ちゃんと自分の言葉で想いを伝えたいと思うようになりました。

はさまや酒造店の12代目当主となり、栗原市の醸造元の酒蔵の一隅を借りて、いまもお酒造りを続けています。栗原市は2011年の東日本大震災を経験で大きな被害を受けた地域です。全国の酒蔵からお酒造りの道具が届き、多くの人が手を差し伸べてくれました。この地域を醸造で元気にしたいと思い、はさまや酒造店の運営企画会社として七清水農園醸造所を設立し、復興のためにわたしたちができることから始めました。

今年、リンゴ農家さんとの協働で、100本のリンゴの日本酒リキュールができ上がりました。たったの100本ですが、わたしには大きな可能性と力の音が聞こえています。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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