Sotto

Vol.35

映画監督

東海林毅さん

相手を想うことは、鏡合わせの自分を見ること

自分の生きかたを決めたもの

物心ついたときには、母親と弟、祖父母の5人暮らしでした。母はピアノの先生で、朝から晩までずっと働きづめ。遊び相手は自分自身か、祖父母でした。畑仕事を手伝ったり、近くの貝塚で化石を掘ったり。小学2年生のころに顕微鏡を買ってもらってからは、毎日のように田んぼや池の水をすくって観察するようになりました。

微生物の写真を撮って、スケッチして。そのうち親にねだって分厚い微生物図鑑を買ってもらいました。図鑑の生物名はラテン語だから、なんて読むのかわからないまま学名を書き写して、標本をつくっていましたね。理科が大好きな小学生。おかげで小学校の6年間、毎年自由研究のコンクールに入賞しました(笑)。

祖父は人の命に値段をつけてお金をかけるなんてもってのほかだと、生命保険はいっさいかけないような、ちょっと頑固な人でした。僕も、自分の経済活動は自分の顔を看板にしてできることだけやる、そういう生きかたをすると決めています。この頑固さは、祖父の影響ですね。

 

考えて、考えて、想像した先に多様性がある

 

本当の自分を知られてはいけない

中学生のころ、同級生の男の子が好きでした。でも、当時のバラエティ番組で「ホモ(男性の同性愛者)」を揶揄するようなイメージがあって、自分自身の気持ちはだれにも話せませんでした。本当の自分を知られてはいけない――。いつも他人から完璧に見られるように、お風呂に入ったあと、ジェルで髪の毛を整えてから寝て、朝起きてまた髪型を直してから通学していました。そうじゃないと、道ゆく人が自分を笑っていると思ってしまう。精神的に追い詰められていました。

大学1年のとき、はじめてゲイをテーマに短編映画を製作して、コンクールに入賞しました。それをきっかけにカミングアウトしたのですが、自分が思っていたのとは違う反応がかえってきた。それからは周囲に言わずに過ごしてきました。やっぱり祖母の存在が大きかった。祖母がどう思うか。これまでの関係がこじれてしまったら、田舎に帰れなくなるかもしれない。理解できると言いながら、自分の家族が当事者だと拒絶する人も多いのが現実ですから。

祖母は、今年のはじめに94歳で亡くなりました。親にカミングアウトしたのはつい2か月前です。

 

東海林毅監督作品『片袖の魚』、静かに広がれ

 

相手を想うことは自分を知ること

短編映画『片袖の魚』の主人公ひかりは、トランスジェンダーの友人たちの複合体であり、自分の分身でもあります。だから制作中はずっと、自分自身と向き合うことになる。作品を生み出すのはとても大変なことです。でも、自分自身を吐き出してつくったものが、多くの人に受け入れられていくのは、最上級の共感です。自分の作品で社会がちょっとでも変わったら、人の考え方がすこしでも変わるとしたら、こんなに興奮することはありません。

自分の思想に沿って生きること。このイシューに対してどう考え、どう行動するか。なにを美しいとして、なにを醜いとするか。それが思想であり美学です。もし、そうした価値判断基準を否定する人がいたら、全力で戦うしかない。それはつまり、自分も他人の価値判断基準を否定してはいけないということです。それが多様性です。

すべての人を受け入れることなんて到底できません。でも、属性やうわべだけの問題で人を判断するのはとても危ない。だから、相手のことを真剣に考えた上で、受け入れるか、受け入れないかを決める。その判断には価値があると思うんです。そして実は、相手を想っているようでいて、自分のことを鏡合わせにして見ているんですよね。すごく怖いことだけれど、でもそうやって自分がつくられていくのだと思います。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

 

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