Sotto

Vol.29

チベット医

小川康さん

意図的ではない日々の営みが人を動かす

祈りの場所~土地か人か~

わたしは富山県の高岡市で生まれ育ちました。家には仏壇と神棚とがあって、ばあちゃんが毎朝ご飯を盛って神棚に手を合わせる――、その光景はいまでも記憶に残っています。仏壇は、ふだん使わない客間にありました。一間ほどある立派な仏壇でいつもきれいにしてあったっけ。家の近所には古いお寺や神社もありました。なかでも子どもが主役の「地蔵まつり」はいい思い出です。6年生になると親方になれる。子どもたちみんなの憧れでした。

日本は土地とのつながりが強いですね。土地に守られている、という部分がある。チベットで10年暮らして感じたのは、土地へのこだわりよりも、人と人のつながりの強さです。チベット仏教のトップであるダライ・ラマ法王という絶対的な存在があるから、自分もここにある。すなわち、ダライ・ラマ法王がどこかへ移動したら、その場所が祈りを捧げる場所になる。自由であり、どこにいっても生きていくタフさでもあります。

 

チベット語で祈りのことばを毎朝唱える

 

読経と祈りと想い

チベットの人たちは毎日読経します。わたしも10年間、毎朝毎夕、お経を唱え続けました。読経の最後に、薬師如来さまの経典が古来どのような人たちによって受け継がれてきたかを伝えるために42人の名前を読み上げます。チベット仏教は、一人ひとりの歴史が積み重なっていまのわたしがいる、という年表にとらわれない歴史観のもとにあるからです。

わたしたちはお経(仏典)と祈りを一緒にしがちですが、チベット仏教において祈りは仏典から独立したものです。仏の教えが広まりますように、というのが祈りで、それ以外は仏の教え(仏典)です。また祈りには、個人的、世俗的なものは含まれません。あした晴れますようにとか、あの人が元気でいますように、というのは「想い」であって祈りとは違います。

ほかにも、チベットでは「瞑想」にあたる行為は、座禅を組んで無になるというよりも、分析に近い。どう分析するかというと、仏典に沿って分析する。その分析法を学んで、何年もかけて自分の心をしっかりと読みとっていく。こんなふうに、言葉は同じでもイメージするものがずいぶんと違うことも多いのです。

 

森のくすり塾の畑に咲く芍薬の花

 

10年の日々が行動を変える

仏教用語に身口意(しんくい)というのがあります。この中でわたしが大事にしているのは「身」。極端に言うと、意味がわからなくても、唱えているだけでその言葉が身体に染み込んで、やがて意識や行動をも変えていくということ。チベットから帰ってきたばかりのころ、道を歩いていたら足元に虫がいた。とっさに足を止めようとして転んだことがありました。「慈悲の心」という言葉が頭に浮かぶ前に身体が反応した。そのときに毎朝毎夕、読経するってすごいことなんだと実感しました。日々を積み重ねて、気がついたら自分が変わっていた。

わたしたちが子どものころは、親が自宅でドクダミを干していました。そんなふうに、日常のなかで親が薬草に関わったり夢中になったりする姿を復活させたい。子どものころに毎朝見ていた、ばあちゃんが手を合わせる姿。意図的ではない日々の営みにこそ、子どもに伝えたいものが内在されているのです。

 

(聞き手=夏目真紀子、撮影=平野有希)

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