Sotto

Vol.25

陶芸作家

岸本しのぶさん

気丈な母は、旅立つその日まで美しかった。

とくべつ褒めたりはせず、そっと飾る

高校で美術を専攻して、短大ではデザインと陶芸を学びました。卒業後は西武百貨店に就職。食器売場で販売や買い付けの仕事をしていましたが、25歳のときに、売る側からつくる側になろうと思って退職。掛川の備前焼の師匠のもとに弟子入りしました。それから約10年間はひたすら陶芸の勉強、いや、修行です(笑)。登り窯を使うような伝統的な陶芸を一から学びました。結婚して、子どもができてからは自分で小さなショップをはじめるようになって、ここ数年は商店街のイベントを企画したりしながら、地元のひとたちといっしょに活動しています。

父と母は民芸やものづくりが好きで、家には昔懐かしい道具がたくさん並んでいました。その両親の影響もあって私も古いものや、ものづくりが好きでした。小さいころ、絵を描いたり、拾ってきた流木や段ボールを使って遊んだりして。母はわたしのつくったモノをひとつひとつすごく褒めたりはしないけれど、そっと棚に飾ってくれる。直接は褒めないのに、誰かがくると、こそっと自慢したりして。うれしかったな。

 

四葉のクローバーと母の手の記憶(1971年)

 

コーヒー淹れてあげられなくてごめんね

父は脱サラをして、母といっしょに珈琲屋「夢畫」をはじめました。いまもお店の裏にみかん山がある、自然をすぐそばに感じられる隠れ家のような場所でのんびりやっています。母は亡くなる一か月前までお店に立ち続けていたのに、自分が旅立ったあとのこと、お墓のこと、なにからなにまで準備していました。だから父もわたしも、いざそうなったときに大変な思いをせずに、母とゆっくりお別れができた。看護士さんからは、母の体の中はとってもきれいだったと言っていただけて。どうしてそんなにしっかりできたのかと思ったら、母が飼っていた猫がお手本だったみたい(笑)。自分の死期を悟っていたのかもしれません。亡くなる前日に、母がわたしに言った言葉は、「今日はコーヒー淹れてあげられなくてごめんね」。71歳で旅立つその日まで、本当に気丈な母だったと思います。

 

孫たちの遠足、母とともにこっそり合流(2011年)

 

母の最期はすべてが本当に美しかった

母はもともと体が強いほうではなかったこともあって、病気が発覚して約10か月後に旅立ちました。以前からご縁のあったお寺の住職が、もしものときは救急車ではなく、葬儀社でもなく、一番にわたしに連絡をしなさい、と。それもあって、最期を自宅で看取ることができました。

家族が母のもとに集まったとき、父が母の容体を説明するために、枕元でずっと話しているものだから、それまで静かにしていた母が、「お父さん、うるさい」って言ったんです。母らしいなと思って、なんだかおかしくってね。みんなで大笑いしました。母の最期はすべてが本当に美しかったと思います。そんな姿を家族に見せたかったのかもしれません。

 

 (聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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