Sotto

Vol.20

チームアナリスト

清水塁さん

心から僕を求めてくれる人たちがいた

先人のいない道を切り開く

大学1年のときに首を負傷したことでレフリーの道に進むことになりました。レフリーというポジションは観客からはブーイングを浴びせられ、チームからは厳しい指摘を受ける。表向きは感謝されることの少ない仕事です。それでも、いいレフリングができたときは、試合後に選手から「きょうは本当にありがとう!」と声をかけられる。その瞬間が嬉しくて。レフリーになったころの夢はラグビーワールドカップの舞台に立つこと。結果的にはリエゾン(世界のトップレフリーのサポート役)でしたが、ワールドカップ日本大会に貢献することができました。

その後、レフリーを引退してアナリストへ転身。しかし、日本協会公認のレフリーがアナリストになる道には先人がいませんでした。誰も教えてはくれない。だから初心にかえってひたすら学びました。日本でトップのレフリーとしてやってきた実績はあっても、アナリストとしてはゼロからのスタート。後輩に頭をさげて、一から分析の技術を教わりました。アナリストとしての経験を積みながら、3チームと契約。試合中はビデオを撮影しながらパソコンで入力作業。帰宅したら朝まで撮影データの分析と数値化。次の日も別の試合に同行して、撮影して、入力して、分析して……。そのころの毎日はとにかく忙しくてたいへんでした。

 

試合中にリアルタイムで分析データを入力する

 

大好きなラグビーで力になれるなら

アナリストのおもしろさは十分感じていましたが、この生活が続くと体力の限界がくるなと、いちど離れることを決めました。大阪に転職先も決まっていたある日、釜石シーウェイブスから「チームアナリストになってほしい」と連絡が来た。僕はもうアナリストの仕事を辞めたので……。何度も何度も断りましたが、それでもオファーは止まなかった。3か月間の熱烈なオファーに根負けして、再びアナリストの仕事を引き受けた。決め手は妻からのひとこと―――「求められるうちが花」。自分から離れていったラグビー界に、それでも僕を求めてくれる人がいた。その声に応えたい。そう思いました。

岩手県釜石市は東日本大震災で大きな被害を受けた場所。震災直後、釜石シーウェイブスの選手たちも復旧に力を注ぎました。いくつもの苦難をともにしてきた釜石市の人たちは、ラグビーが本当に大好きなんです。ラグビーを通して、僕も東北の力になれる。オファーをいただいたのが釜石シーウェイブスでなかったら、アナリストに戻ることはなかったかもしれません。

 

ゲームボーイに夢中だった小学生のころ

 

最後の最後まで仲間のために

小学生のころは弱虫でした。父親にすすめられてレスリングを始めたものの、まったく続かず。年齢の割には体が大きかったからと、小学1年生のときにラグビースクールに入れられたのですが、すぐ泣いてね。ママっ子の弱虫くん。練習に行きたくなくて、サボってばかりでした。見かねた母が、ラグビーの練習に行くなら『ドラゴンボール』全巻を買ってあげる、と提案した。それにつられて練習にいきました(笑)。それがたまたま試合の日で、一生懸命やってみたらレフリーに必死さが伝わったのか、反則をとられず得点をあげることができた。周りも喜んでくれて、それがものすごく嬉しかった。それからラグビーを好きになりました。

釜石シーウェイブスの選手たちは優しくて、愛のある選手たちです。どんなスキルよりも、どんなパワーよりも、最後の最後まで仲間のために体を張れるところが一番かっこいい。自分のためではなく、誰かのためにがんばる。いまは、それが幸せです。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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