Sotto

Vol.12

若林佛具製作所

若林智幸さん

「ええもんをつくれ」~引き継がれる想い~

強烈な個性をもった先代たち

若林の事業を拡大したのは3代目の曽祖父、そして、4代目にあたる祖父でした。祖父は高度経済成長期を走りぬいた経営者であり、昔ながらの京都のいわゆる旦那衆であり、ワンマンで、とにかく厳しかった。代々の若林は「卯兵衛」を襲名しているのですが、祖父だけはしなかった。お墓も自分だけ別の場所に建ててしまった。ほんとうに困ったものです。

わたしがまだ小学生だったころ、親族一同が集まって食事会をすることがありました。ご飯を食べている最中に、なにが気に食わなかったのか、祖父がとつぜんめちゃくちゃに怒り出して、みんなシーンと黙り込んでしまった。その場の空気に耐えられなくて、トイレに逃げ込んだのを覚えています。しばらくすると、祖母が迎えにきて、連れ戻されましたけど。家族にとっても祖父は腫れ物に触るようなものでした。

 

木造2階建ての旧本社社屋(昭和元年築)

 

反面教師であり、尊敬すべきひと

20代のころは、まだ家業を継ぐ気はありませんでした。最初は不動産会社に就職して、転勤で東京へ。30歳になると、祖父の指示で前職を辞めるように言われて、若林に入社することになりました。しばらくすると今度は、祖父から突然、ロータリークラブに入れと言われて、渋々入会することに。でも、向こうからすれば、会社で役職にもついていない若造が何を言ってるんだ、と。ほかの会員たちにいったん入会を拒否されてしまった。そのことを祖父に話すと、じゃあ取締役にするか、と。そんなことで、若林の取締役に就きました(笑)。それから約4年後に祖父は他界。敵の多い人だったかもしれませんが、いまでも祖父の存在は大きくて、人柄については反面教師ではあるけれど、仕事の面では尊敬すべきひと。だれよりも厳しい眼で仕事と向き合ってきた、ほんものの商売人だったのかな。と、いまとなっては少し前向きに受け止めています。

 

3代目のころ、大正時代の仏壇仏具注文票

4代目の若林正夫(松渓)による社是

 

先人が道を示す

昭和の終わりから平成にかけて、世の中は変わりました。バブルは崩壊して、やりたいことが思うようにできない。わたしが経営を引き継いだときも、まずは削減からのスタートでした。「社長がかわって3年で何もできなければ、その先はない」。チャレンジしにくい時代でしたが、新しいことをやろう。そう思って、ネット販売や新規事業を始めました。

会社の進む道に悩んだり、岐路に立ったりしたときは、3代目ならどうしていたか、4代目ならどうか。いつもそんなことを想います。彼らは、いまよりももっと不自由な時代を乗り越えてきたはずだから。自分が何かに悩んだとき、進む道を示してくれるのは先人たち。表面的には存在していませんが、心の奥底にいるような感覚。逆境に立たされたときにはいつも現れてくれる。

「とにかく、ええもんをつくれ」。祖父がよく言っていた言葉です。先人たちの背中をしっかり見せてもらったのだから、ここで立ち止まるわけにはいかないでしょう。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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