Sotto

Vol.11

ハンドベル奏者

大坪泰子さん

「いつか」じゃなくて、「いま」じゃない?

ハンドベルができないと泣いた日

ハンドベルに出会ったのは中学生のとき。初めて見た瞬間に、絶対やりたい。そう思いました。中学3年生からハンドベルを演奏できるようになって、誰よりも熱心に楽器と向き合っていたし、実際、かなり熱意のある生徒だったと思います。そんなわたしが、高校に上がって、ハンドベルクワイアのメンバーを選ぶくじ引きでまさかの落選。もうハンドベルができない……。初めて学校で泣きました。それを見た友人たちがびっくりしたのか、次々に辞退を申し出て(笑)。繰り上げ当選でメンバー入りできました。いまの私がいるのは、あのときメンバーの枠を譲ってくれた友人のおかげです。

 

 

お世話になりっぱなしのアメリカツアー

高校を卒業してからは、いろいろなハンドベルのグループに参加しながら活動を続けていました。10年間主宰したグループを解散して「きりく」を立ち上げた32~33歳ころから、頻繁に渡米するようになりました。それまでとは少し違った環境でも演奏をしてみたくなったのです。楽器メーカーの社長に手紙を書いて、サンフランシスコのハンドベルグループ「ソノス・ハンドベルアンサンブル」を紹介してもらいました。アメリカでは、演奏仲間は勿論のこと、公演先の各地でも皆とても親切で、ホームステイで渡り歩いたことも、感謝を積み重ねる良い経験となりました。

ちょうど日本で初心者ばかりを集めて「きりく」を立ち上げたころで、「きりく」のメンバーにも、ぜひこういう体験をしてもらいたいと思って、コンサートツアーをさせました。若いメンバーは当初、知らない人の家に泊まることに抵抗があったようです。でも、一宿一飯の恩義というか、お世話になる体験を繰り返した結果、心からの感謝が溢れ出たのでしょう。ツアーが終わるころには、みんなの表情もベルの響きも変わりました。音楽に必要な、大事なピースを見つけてくれたと思いました。

 

ソノス・ハンドベルアンサンブル時代(2003-2010ころ)

 

「いつか」じゃなくて、「いま」

演奏会というものは、いつでも一期一会。アメリカのグループにはいつでも戻れるし、イベントに通うこともできるけれど、メンバーや観客はいつも同じではありません。あるいは、いまのように、社会情勢で思うように動けなくなることもある。自分から行動しないと二度と会えないかもしれない。だから、自分が動けるうちはできるだけ自分から会いに行こうと思っています。若い人たちには、やりたいことがあるなら、「いつか」じゃなくて、「いま」やりなさい、と伝えています。学校を卒業したらハンドベルを辞めてしまう子も多いけれど、ここにも一期一会がある。私は親でもないし、学校の先生でもない。でも、だからこそ伝えられることがあると思っています。

 

公演のリハーサル、大親友のMelissa Vainio女史の隣で

 

心はいつもつながっている

ハンドベルはひとりではできない楽器です。仲間といっしょに、みんなで高みを目指す。それができてはじめて自分も活かせる。社会と同じです。自分ひとりだけがよければいいってものではないはず。ソノスの仲間とはいまでも連絡を取りあっています。東日本大震災が起きた当日には、「家族を連れてすぐにサンフランシスコに避難して来い」と連絡がありました。同じように、アメリカで地震や大火災、いまだとコロナが起きると、私も仲間の無事を祈ります。人を想うというのは、そんなふうに自然に生まれてくる気持ちなのではないでしょうか。

毎年暮れになると、アメリカの友人夫婦にカレンダーを送っています。でも、去年はコロナの影響でいつも通りには届かないかもしれない、と。彼女にそのことを伝えると「じつは私も郵便を送って、同じことを言われたのよ」って。やっぱり、いつもどこかで心がつながっている。おもしろいですね。

 

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

 

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