Sotto

Vol.6

最福寺 住職

廣沢智純さん

その人の声や生き方は、心のなかに生きつづける

知らない土地に身をおく

静岡県土肥市のお寺の五男として生まれました。兄が実家のお寺を継いだので、わたしは特にお寺のことをするわけでもなく、新しい場所で新しい経験をしたいと思い、学生時代は東京で過ごしました。大学では「海外旅行研究会」なんていうのに入って、仲間といつも旅行の計画を立てていました。どうやったら安く行けるか。ひたすら考えたりしたものです。あの頃はまだ、沖縄に行くのにパスポートが必要な時代でね。ビザを申請してからみんなで合宿に行きました。写真をまとめるのが好きな仲間がいて、旅行のアルバムもたくさんたまってきました。そのときの仲間とは今でも2年に一度は海外旅行に出かけています。

 

 

朝は必ず、うちに寄れよ。

大学を出ると、また新しい環境で学びたいと思って、こんどは京都へ。学生部の紹介で受けた銀行に採用されて、就職を決めました。友人も知人もいない、知らない土地での新しい生活です。九条にあった会社の寮から五条にある支店まで路線バスにゆられて通勤。3年半勤めました。

22歳のときだったかな、会社の得意先にネジ工場があるのですが、そこの社長にえらく可愛がられるようになって。社長の娘さんとわたしの歳が近かったものだから、なにか思い入れがあったのかな。わたしが外回りを担当するようになると、「朝は必ず、うちに寄れよ」って。毎朝、社長のところに寄って、いっしょに喫茶店でコーヒーを飲んで、それからようやく外回り。コーヒー代は「出世払い」とか言って、いつも社長が出してくれました。

 

心地よく居眠りをした休日の釣り

社長はいつも、「悩みごとがあったら何でも聞いてやるぞ」と。ほんとうによく面倒を見てくれました。いちど、わたしが交通事故を起こしたことがあって……。あのときは心配かけたっけ。すぐにあちこちに話をつけてくれて、頼もしかった。まるで父親みたいな存在です。社長は釣りが好きで、よく美浜に出かけていました。休日にはわたしもいっしょに出かけました。海を眺めながらボーっと釣竿を垂らしていると、日頃の疲れが出てきてね。釣りなんてほったらかしで、ただ居眠りをしていただけなんですけど。社長はそんなわたしの姿を見て喜んでいたみたいです。

銀行を辞めて、静岡に戻って、ご縁あって最福寺の住職になりましたが、社長とは相変わらず連絡を取っていました。ここのお寺にも来てくれました。しばらくしてネジ工場のほうはたたんで、息子さんとコーヒー屋をはじめたそうです。社長の葬儀には京都まで行って、立ち会いました。最期までほんとうにお世話になりました。

 

春になるとしだれ桜が満開に咲く

 

姿かたちは滅しても

うちの檀家さんで、娘さんを亡くされた方がいました。なにかある度に、いつもあの子が夢枕に立つんです、と話していました。でもね、「いつでも自分の側にいてほしい」とお母さんが想っていると、娘さんはいつまでも旅立つことができない。百箇日も過ぎた頃、わたしは心を鬼にしてでも、「娘さんが迷ってしまうから、もうだいじょうぶ。旅立っていいよと思うようにしなさい」と諭しました。すると、自然と夢枕に現れなくなったそうです。それがまさに「往生」です。

大切な人の声や姿はいつまでも覚えているものですよね。姿かたちは滅しても、その人の声や生き方はそれぞれの心のなかに生きつづける。それでいいのです。

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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