Sotto

Vol.2

作家

高橋千劔破さん

若い日の思い出は、自分だけのものだから

僕にとって、山は青春の思い出そのもの

学生時代は山岳部。学校の外でも自分で山岳会をつくって仲間と山に登っていました。「高橋は学校から山に行くのか、山から学校に通っているのか」、なんて言われたものです。自分で地図を集めて、ルートを考えて、ヒマラヤの未登峰に登る夢を見たこともありました。とにかく、僕の青春は山。たいてい7人から10人くらいのパーティ。秩父山系から始めて、南北のアルプスを何度も登りました。ある年は雪山で身動きが取れなくなってね、20日間もテントにこもったこともあった。毎日、朝になったらテントの雪を払い下ろして、吹雪の中過ごしました。だけど、そのうちに就職して役職がついてくると、なかなか。みんなで登るっていうのは難しくなっていきました。山への想いは今でもずっと持っています。

 

昭和28年3月 金峰山にて(手前が高橋さん)

 

黒部の源流で釣ったイワナの味

黒部の源流ではよくイワナ釣りをしました。黄色いハエを捕まえて釣鉤につけたら、川の水面につくかつかないくらいの高さに投げ込んでは、すっと引き抜く。東沢近くの洞窟で出会ったおじさんに釣りの仕方を教わりましてね。毛針は熊笹などに引っかかっている雷鳥の産毛を集めて針に巻きつけてつくるんだとか。山小屋のアルバイトもやりました。今と違って、荷物をヘリコプターで運ぶ時代じゃない。40キロ、50キロの荷物を背負って登る。昔は登山道も整備されていないですし、落石や雪崩もありました。集めた流木で仮の橋をつくって対岸に渡ったりもしました。

昔のアルバムを見返しては、仲間のことを思い出します。あのとき手に掴んだイワナの感触や味も鮮明に覚えています。家でイワナを食べてもあんなに美味しくはないのに、山で食べたあの味は忘れられない。美味しかったなあ……。

 

ある夏の日の一通の電報

夏のあいだ、剣岳から上高地まで縦走していたときのことです。ようやく上高地に到着すると、「高橋、親父が死んだんじゃないか」って。それで電報を見たら、「オヤジ ナンアニテ シス」という一報が届いていました。「オヤジ」というあだ名の、僕の二級後輩でね。あっちは南アルプスの北岳を登っていたんです。北岳の頂上付近で高山病を発症して、そのまま息を引き取った。僕はすぐに上高地から下って、頭が真っ白のまま自宅に帰らず彼のもとに向かいました。

毎年、夏になるとオヤジの追悼に北岳を登りました。当時の北岳山荘は霧が発生すると山小屋の位置がわかりづらくて、お金を集めて霧鐘を設置しました。霧のときに鐘を鳴らして道を示すものです。いまでも北岳山荘の脇にその鐘はあります。

 

 

Because it’s there(そこに山があるから)

日本の山だけでなく、ヨーロッパアルプスにも登りました。若い頃はお金なんてなくても、アルバイトで稼いでなんとか山に行けたものです。社会に出るとだんだん行けなくなって、そのうちに体力的にも難しくなってしまいました。若い日の思い出っていうのは、自分だけのものだから。歳を重ねてみると、いかに若い頃の思い出が貴重なものかに気づきます。山で亡くなった仲間も少なくありませんが、それでも山に登ることは辞めなかった。なぜ山に登るのかと聞かれたら、そこに山があるから。有名な登山家ジョージ・マロリーの言葉ですけどね。もう一度行けるなら、ヨーロッパの山にまた登りたい。でも、もうじき80歳だからね。こればかりは仕方がないな。

(聞き手=加納沙樹、撮影=平野有希)

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