Sotto

想雲夜話

第20夜

ただ、照らす。

 

月ぬ美しゃ十日三日 女童美しゃ十七つ
(月が美しいのは十三夜 娘が美しいのは17歳)

――八重山民謡『月ぬ美しゃ』

 

そのときに頭をよぎったのは、なぜ美しいのかを月に問うたとして、月は答えてくれるだろうか。そもそも、そこに「なぜ」は存在するのだろうか。月はただ美しい。それだけのことではないか、と。

ひるがえって、わが身を思う。わたしたちは何かをするときにいつも、なぜを考えていないか。いやむしろ、わたしたちは子どものころから、何をするにも、なぜを考えてから取りかかるように教えられてきたのではなかったか。

だが、まて。美しい月を見て、なぜを問うのはだれだ? 月? いや、ちがう。問うているのは、月を見ているわたしではないか。とすれば、わたしが何かをするとき、なぜを問うのは、わたし自身ではなく、わたしのすることを見ているほかのだれかだ。月は答えない。ならば、わたしも答えまい。何も問わず、何も答えず、月はただ美しい。わたしも、なぜを問わず、なぜに答えず、わたしの思うことをするがいい。

 

東から上りおる大月ぬ夜 沖縄ん八重山ん照ぃらしょうり
(東から上る満月の夜 沖縄を八重山を照らしてください)

あんだぎなーぬ月ぬ夜 我がげら遊びょうら
(あれほどの美しい月の夜 みんな今日は宴をしよう)

 

月に照らされた浜に出て、人びとは躍る。人びとを踊らせるために照らすのではない。月はただ、照らす。そして、人びとは浜で踊る。ああ、わたしも照らす人になりたい。問わず、答えず、ただ、照らす人に――。

けれど、人は弱く、もろい。なぜと問われれば答えずにはおられず、照らせども踊る人がいなければ心細い。ようするに、人間の欲だ。知ってほしい、認められたい、ほめられたい。だが、そうではないだろう? 知られるためではなく、認められるためではなく、ほめそやされるためではなく、ただ、照らす。そうだろう?

と、何度も何度も自分自身に言い聞かせながら、夜の道をひとり歩く。そのわたしの頭のうえで、月は静かに、ただ、わたしを照らす。こうだ、こうだ、こうなのだ。

 

🖊 平野有希

Share

So storyでは
読者のみなさまのご意見、ご感想をお待ちしております。