第19夜
だれといっしょに
長生きしたくない、でも、長生きしてほしい。なんて、そういう自分勝手な思いが、一年をまたぐ時期になると、とくべつに大きく膨らんで、かといって、やっぱりしかたなしに歳をひとつ受け取って、ぢっと手を見る。
門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
――一休宗純
大晦日が元旦に変わったからといって、自分の人生が変わるわけではないし、いや、勝手に変ってくれたら、どれほどラクだろうと願いながら目を閉じて、もういっぺん開いてみても、やっぱり勝手には変わらない。けれど、何かを変えたいと思って、本気で立ち上がったら、その瞬間からものごとは変わりはじめる。
自分の中の何かが変わる、とする。でもそれは、ある日突然変化するのではなくて、たとえば、火山が腹の中にマグマをため込んで、ため込んで、いよいよ、もう辛抱ならなくなったときに爆発するのと同じように、自分の中の見えないところに少しずつ積み上げて、積み重ねて、いよいよ表に出てきたときに、ああ、変わった、と、そこで気がつく。
英語の勉強のはじめのほうに「5W1H」――“Who, Where, When, What, Why, How”――というのを教わった。どれも同じように並べて覚えるから、どれも同じくらい大事なもの、同じだけの価値のあるものだと思っていたけれど、ほんとうはちがう。肝心なのは、いちばんはじめの“Who(だれ)”だ。そのときはわからなかった。でも、あちこちぶつかりながら生きているうちに、だんだんとわかってくる。だれと? の問いかけが、なによりも大事なものだ、と。
会う、暮らす、働く、食べる、遊ぶ、出かける、生きる。ぜんぶ、ぜんぶ、大事なのは、いつだって、だれと? きょうからでも、あしたからでも、いや、いまからだっていい。だれと? を本気で考えて、選んで、つかんで離さないこと。それで人生が変わりはじめる。そして、変わったことに気がつく。
人生は旅だ。旅の途中に目印のひとつやふたつ、あったほうが頼もしかろう。ひとつ門松を立てたら、また次の一里塚。どうせたどり着く場所はみなおなじだ。急がず、あわてず、のんびり回り道。さて、だれといっしょに歩こうか。
🖊 平野有希