Sotto

想雲夜話

第7夜

腹をくくった諦念

 

鴨長明は、じっと河を見つめているうちに、気がついた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。永遠とも思える河の流れと、その上に浮かんでは消えてゆく泡沫(うたかた)と。大いなる時の流れを思えば思うほどに、人のいのちのはかなさを知る。そうしてこの世の無常を悟ったと同時にまた、悩みもいっそう深まったにちがいない。一瞬のいのちを、それでも生きていくというのは、いったい何だろうか。

目覚まし時計をじっと見つめているうちに、秒針の音がくっきりと聞こえ始める。チッ、チッ、チッ、チッ……。10回、30回、60回。5分、10分、15分。ただただ、時間が正確に、刻々と過ぎていく。時間とは、いのちそのものである、とすればなんということを! けれど、けれど! そういうふうに時間をやり過ごしながら、あるいは、そういうふうにいのちを削って、矛盾しているようだけれど、生きるための方法を探していたあのころ。ただ動いている――物理的に、あるいは、機械的に――ことが、はたして生きていると言えるのか。どうしても納得ができずに立ち止まっていた。

立ち止まるのは自由だ。が、自分ひとりがその場に踏ん張っていても、そんなことにはかまわず、時は淡々と、刻々と、先へ先へと進んでゆく。わたしは立ち止まる、が、時間は過ぎていく。止まっているわたしと、動いている世の中。ふたつの映像を頭の中で繰り返し繰り返し、繰り返し再生しているうちに、気がついた。わたしが立ち止まったところで、世の中は変わらない、と。

そうであれば、どうせ変わらないのなら、いっそのこと前へ進んでみようか。再び歩き出してみようか――。

はかないいのちを、それでも生きていくというのは、そういう〈腹をくくった諦念〉とともに、前へ進むことだ。生きるというのは、生きるというのは、いったいなんということか。

 

🖊 平野有希

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